『誤解されている国 ミャンマー』都築 治 (中小企業診断士 )
1 ゴールデン・トライアングル
穏やかな三角地帯
1995 年のとある日、タイ、ラオス、ミャンマーの国境が接するいわゆるゴールデン・トライアングル地帯を中小企業診断士の先達である鈴木基之氏と、氏のご令嬢との3人で旅をした。当地にティーク材造りのショッピングセンターの完成、及びメコン川を走る豪華客船の運行が始まるとの報を耳にしたからである。
宿泊したのは、三角地点にあるデルタ・ゴールデントライアングル・リゾートホテルと言う名のホテルである。開業間もないホテルで、要所要所にティーク材が使われている。建物の中は薄暗く、老眼が進行し始めた身としては書き物や荷物の整理等がし辛い。
バンコクから遥か離れたこのホテルでのクレジット・カードの使用状況がどのような具合か、試してみようと言うことになった。コーヒー1杯が1$である。3人分を鈴木氏がダイナ ースカードで支払う。わずか3$でも対応は良く、使い勝手は良好であった。
ホテルの前面道路には何軒かの土産物店がある。住まいと一緒になった掘っ建て小屋風の建物である。「GOLDEN TRIANGLE」 とプリントされたTシャツや、民芸品などが沢山売られている。
ホテルの前にはメコン川がゆったりと流れており、ボートでクルージングした。前夜真っ暗の中で食事した食堂の所からボートが出ているのである。明るい時に見るとなかなか趣のある店である。メコン川で捕れるナマズの入ったスティーム・ボートを、前夜暗闇の中食したのであった。
当地は地上に名高い黄金の三角地帯と言われているが、守備兵がいる訳でもなく全くのどかな風景である。ボートは快調にメコン川を走る。肌に触れる風が気持ち好い。ミャンマー側の川岸にはホテルの建設が進んでいる。ラオス側の岸辺には魚を捕る人たちが散見される。ラオス側はジャングルの様相を呈している。ゆったりとした感覚と、大きな感動を覚えた。
クルージングの後で、今回の旅の目的であるショッピングセンターの見学に出かけた。ショッピングセンターは全館完成していたが、一部のフロアーは開店できないでいた。3階建てのティーク材の建物は豪華な感じがして見事であるが、お客が余りにも少ない。我々3 人だけである。ここでは、ミャンマー製の漆製品の小物入れを購入した。価格は3程度であったと記憶している。客船は待機していたが、まだ運行は始まっていなかった。中国側の発着点、景供の港湾施設の整備が遅れているからとのことであった。
賑わう国境の町 ― メーサイ
ゴールデン・トライアングル地帯の三角点のある町チェンセーン観光後、ミャンマーとの国境通過が許されている国境の町メーサイに向かった。チェンセーンはタイ族が初めて王朝を築いた土地である。途中田園地帯が広がるが、その光景は、高床式の建物を除けば私の子供の時の日本の田舎の感じとそっくりである。
メーサイはミャンマーのタチレイと国境を接しており、タイ北部の国境の町として広く知られている。ガイドブックには見る所はほとんど無いなどと記されているが、診断士の身としては大変魅力的な町であった。
ミャンマー側から持ち込まれた多くの品が売られていたし、中国系の商人も多く、日本語が通じるのにはびっくりした。こんな所にも日本人が何人もやって来ているのだなあと実感した。メーサイの街長は 400m程度で、道路の両側には土産物店等がぎっしりと並んでいる。土産物店の中には、アヘンの販売に使われていたと思われる天秤式のはかりや、古ぼけたビルマ様式の竪琴(サウンガウ)を売っている店がある。また、インド系のミャンマー人が、旧式のビルマ紙幣やコインを観光客に売り込もとして盛んに声を掛けてくる。翡翠の加工販売をやっている中国人の店もある。金融機関やホテルもある。
タイとミャンマーを隔てるのは川幅わずか 2・30mの川で、その上に橋が架かっており対岸がミャンマー国となる。
ミャンマーに入国したかったがこの時はアヘン王として名高いクンサーが一帯で暴れており、国境のゲートは閉ざされていた。したがって、小高い山の上からタチレイの様子を眺めただけに終わ ってしまった。
その後分かったことは、それがクンサーとミャンマー国軍との最後の争いであったことである。クンサーは中国の国民党の流れを引く人物で、長い間麻薬取引で同地帯に君臨していた。毛沢東との戦いに敗れた国民党の一部は、ミャンマーやラオス、タイの国境地帯に逃れ込んだ。そんな関係もあり、クンサーはミャンマー国軍とも敵対関係にあったが、中国共産党や共産ゲリラとも敵対していた。一時は、台湾やアメリカから支援を受けていたこともあると言われている。クンサーは
96 年にミャンマー政府軍に帰順した。
メーサイからタイの古都チェンマイまで車で何時間もぶっ飛ばして行くことになるが、途中の小さな町々は、田園風景と同様に私の子供時代の町そのままの感じであった。アジアに親近感を抱いた。
2 ミャンマー初来訪
ミャンマー航空
ミャンマーを訪問する前に、自由党の西村真悟議員(元民社党)の議員秘書をされていた寺井 融氏著の「ミャンマー百楽旅荘」 三一書房刊を書店で見つけて購入した。西村議員は元民社党系議員の中では最もタカ派的な方であり(民社党の二代目党首であられた故西村栄一氏のご子息)、三一書房は左よりの印象が強く、その取り合わせが面白い。同著の中で、国営のミャンマー航空のことが述べられていて、寺井氏がいたくお気に入りの様が描かれている。こんな事情もあり、飛行機に乗る前から浮き浮きした気持ちと、僅かな緊張感をもった。何故なら、日本国内の報道ではミャンマーは人権弾圧の国で、常に国民と軍事政権とがいがみ合っており、物騒な国と聞いていたからである。
国際便としては、飛行機は小さい。96 年の 11 月 18 日からミャンマーは観光年を迎えた。そんな関係もあり、スチュワーデスは非常に親切であった。今回の旅も前記の鈴木氏と二人で行ったのであるが、我々が日本人であると分かると、色々話し掛けてくれた。鈴木氏は英語が得意ではないから、すこしは話せる私が対応することになる。1時間と少しばかりの機上ではあったが、和やかなもてなしにすっかりと良い気分になった。
ヤンゴン到着
ミンガラドン(ヤンゴン)空港は非常に小さい。飛行機から降りるとムッとする熱気が伝わって来る。空港内は暗い。きたない独特の匂いがするバスが乗客を迎える。ほんの一瞬の車中で、イミグレーションのある建物に到着する。タイのドン・ムアン空港やシンガポールのチャンギ空港を見慣れている身としては、異常に小さい建物にびっくりする
入国審査は簡単に済む。すると、直ちに右手の方へ行けと言う。強制両替のカウンタ ーである。300$を FEC (foreign exchange certificate) 300$と交換する。この国では、一般の旅行客はUS300$を現地の兌換券と両替しなければならない。外貨不足を補わなければならないからである。
両替後、しばらくするとベルトコンベアに乗って預けて置いたバッグが出てくる。税関の審査もしごく簡単である。簡単な1枚の書類を渡すだけでパスする。いよいよミャンマーに入国である。入国客を待つ男の人たちの服装が何か異様である。全員がスカートをはいている。巻きスカート状のものはロンジーと言い、この国の民族衣装である。女性のみでなく、ほとんど全員の男性が巻きスカートを着用している。
旅行社のガイドが小さな看板を掲げて出口で迎えてくれる。確認が終わると、ロンジーを着用した男が旅行バッグを持って行ってしまう。ポーターである。お金を稼ぐために、多くのポーターが空港の構内出口にいる。ワンボックスのワゴン車に乗り込む。ガイドが、兌換券を現地通貨に両替せよと言う。兌換券 50$をチャットに両替した。当時の交換レ ートは、1$が 130K(チャット)程であった。1$は百円程度である。
ヤンゴンに着いた当日は、民主派と言われる学生たちが騒いでいた時でもあった。ヤンゴン大学や、その近くのアウンサンスーチー邸へ向かう道路のあちこちにバリケードが築かれ、所々に銃を持った警官が配備されている。したがって、少しばかり大回りしてホテルに到着する
途中、商店がまだ何店か店を開いていたが、多くの店は店頭と店内に裸電球が2つあるだけで、店内は薄暗い。商品の良否を識別することは難しいように私には思えた。もっとも、この国の現状では商品を選別する以前の段階で、品物がなんとか手に入ることができればそれで良いのかも知れない。
ホテルは、ミャンマー放送局に程近いリバティーという名のホテルである。その後の旅行で、このホテルの前を何度も車で通ることとなった。ホテル内は静かで穏やかで、日本国内で言われているような印象とは違う感じを受ける。ヤンゴンの市街地図を1弗で購入した。部屋の中はきれいになっており問題はないが、風呂のお湯が十分出てこないことには少々まいった。電力事情が悪く、給湯にまで行き渡らないからである。
アウンサン将軍とアウンサンスーチー
ミャンマー国内ではアウンサン将軍は神格化され、建国の父と言われている。アウンサン はイギリスから完全独立を見ないうちに、32 歳の時に暗殺された。アウンサンはイギリスからの独立戦争で、日本軍と共にイギリス兵やその配下のカイン(カレン)族などの兵士を多数戦死せしめた。本来ならば、アウンサンは戦勝国からすれば戦犯である。その恨みを抱くイギリス人将校が、アウンサンのライバルの先輩政治家ウ・ソーをそそのかし、死に至らせしめたものであると言われている。
イギリスは敗色著しい日本軍に徹底的なダメージを与えるために、ビルマの国民軍を味方に付けさせた方が損害が少なく、また戦況が圧倒的に優位に進むため、ビルマ国民軍を寝返りさせた。ビルマ側としても、敗戦国日本にいつまでも味方をしていては、真の独立はおぼつかない。そのために、日本軍に対して反旗を翻した。そう言う行為は恩義ある国に対して裏切りであるとして、自殺した国軍志士もいたほどである。日本で軍事訓練を受け、独立運動に立ち上がった 30 人の若者たちを「伝説の 30 人志士」と同国では呼んでいる。
アウンサン将軍の娘であるアウンサンスーチーびいきのミャンマー国民も多い。ミャンマーでは姓は無く、名のみである。日本人のほとんどはアウンサンが苗字で、スーチーが名前と思っているが、アウンサンスーチーで1つの名前である。アウンサンスーチーと一口で発音するには長過ぎるし、またアウンサン将軍のイメージを強烈に与えるので、ミャンマー国内では単にスーチーと呼んでいる。日本でも、一般的にスーチー女史と呼ばれることが多い。ガイドはアウンサン将軍を崇拝しているし、スーチーが好きだと言っていた。
小説「ビルマの竪琴」の舞台
翌日は、ヤンゴンから 75km程離れた古都バゴーに行くことにする。当日は自由行動となっているので、前日にガイドと交渉してバゴーに行くことに決めたのである。旅行社を通さないようにさせたので、1日あたり 60$の車代である。ガイドはなく運転手のみである。オプションツアーの場合、通常はガイドと昼食付きで1人当たり 80$の料金だそうである。歩いている若者は、ミャンマー独特のシャンバッグを肩に下げている。走っている車は年代物がほとんどで、4・50 年は楽に経ったようなものもある。車体は日本語で書かれた看板そのままのものがあり、神奈中バスや田中建材店の車が走っている。この国でも、日本車の評判は大変良いのだそうである。また、道路の所々にはエンコした車が止まっている。車の下に運転手が潜り込んで修理している。
幹線道路の所々はバリケードが築かれているので、脇道を通りバゴーに行くことになる。正規のルートを外れて走ると、さまざまなことがよく分かる。送電線の貧弱なこと、開墾地の住宅は竹や椰子の葉でできているためか、ターザンの映画で見られるような外観の様相を呈していることなどである。
バゴーではシュエタリャウンパゴダ、マハゼディーパゴダ、チャイプーンを見学した。シ ュエタリャウンパゴダは巨大な寝釈迦像であり、小説や映画「ビルマの竪琴」で水島上等兵が胎内でひそかに竪琴を奏でる場面で知られている。ミャンマーのお坊さんは戒律で歌舞音曲が厳しく禁じられており、お坊さんが竪琴を奏でることは全くあり得ない。かような行状では破戒僧となってしまい、僧籍を剥奪されてしまう。
マハゼディーパゴタは白色の仏塔で、外周に階段があり男性のみ中腹まで登ることができる。バゴーが一望でき、壮観だそうである。聖なる建物に登ることなど当然できないと思い込んでいたため、今回は上に登らなかった。チャイプーンは4面仏であり、過去7仏のうち西面は7仏の釈迦牟尼仏、北面は4仏の狗留孫仏、東面は5仏の狗那含牟尼仏、南面は6仏の迦葉仏の顔となっている。
シュエタリャウンパゴダの前面は参道になっており、仏具等のお土産屋が店を構えている。ここでは白檀の数珠を買った。7$であった。公営の土産物店もあり、そこでは少しの値引き交渉にも応じない。社会主義時代のやり方が残っていると感じた。マハゼティーパゴダでは拝観料を払おうとしたが、何故か私からは取ろうとせず、後から来た鈴木氏が2人分払わされていた。チャイプーンでも同様であった。その理由はいまだに分からない。マハゼディーパゴダの拝観案内所で、ミャンマー国軍の曲として知られている「軍艦マーチ」を鈴木氏がマイクで披露した。ミャンマー国民は、多くの日本の軍歌を自国の曲と思っているとのこと。
帰りの道中で昼食を取る。日本人観光客が入るような店ではないが、ミャンマーの人にとっては高級店なのではないかと感じられる。出されたものを平らげると、直ぐにお代わりが出て来る。ミャンマーでは少し残して置くことが、もう十分であると言う合図なのだそうである。ここでは、紫檀製の菓子器を購入する。6$であった。ティーク製の二頭立ての牛車の置物が飾ってあり、見事なできで、価格も日本円で3万6千円程度で魅惑的であった。しかし、持ち帰るには余りにも大き過ぎて、鈴木氏共々断念する。
海外へ持ち出し禁止の竪琴
バゴー観光の後はヤンゴンの市街を車で回る。ヤンゴン市の街区はイギリスによって区画割りされ、そのほぼ中央にはスーレーパゴダがある。スーレーパゴダは金箔で覆われ、夜間になるとライトアップされて、終日光り輝いて見える。同パゴダの西側はインド人街で、さらにその隣が中国人街である。街は雑然としており、東南アジア独特の喧騒感がある。ゴミはほとんど落ちていないが、歩道の敷石が持ち上がたりなどして、でこぼこしている。下をよく見て歩かないと、つまずきそうだ。バンコクの道路もこんな状態の所が多い。シンガポールのオーチャード・ロードなど整備された歩道と比べると大違いである。
前記寺井氏の本に、ミャンマーのメガネは非常に安くて具合が良く、なかでもYE眼鏡店が推薦店と書いてあったので、運転手に同眼鏡店に連れて行ってもらう。鈴木氏と一緒に検眼してもらったが、私の目は乱視が入っており、さらに遠近両用でないと役に立たない。書いてもらったカルテを見てみると、近視用のみが書かれている。それでは愛用する訳にはいかないので、買うのを止める。鈴木氏は、近視でも乱視でもないので都合が良い。
検眼してくれた女医さんと一緒の写真を撮ってくれと鈴木氏が言うので、彼女と並んだ写真を写すことにすると、鈴木氏が女医さんの肩に手をかけたものだから、女史はびっくりとする。後で分かったのであるが、この国では女性と肩を組むことはあり得ない行為である。メガネは 20$であった。明日完成品を取りに来ることにし、同店を後にする。
鈴木氏が今度は骨董品屋に行って見たいと言うので、インヤーレイク・ホテルの近くにある骨董品屋に行く。7・8店舗程の骨董屋が並んでいる。骨董と言うよりも、がらくた品である。象牙やシルバーでできた物も置かれているが、象牙の品は日本に持って帰れないし、シルバー製の気に入った物は 800$もして私には高すぎる。
鈴木氏が竪琴を弾く真似をして、ビルマの竪琴サウンガウがないかと店の人に問うと、縁の下から埃だらけのサウンガウを取り出して来る。鈴木氏が購入した価格は、日本円に換算すると3万6千円程になる。当地の平均給与は3千円程度であるから、店の人は大喜びである。帰り際には、よその店の人も店から出て来て見送ってくれた。
翌日ガイドがいくらで買ったのかと言うので鈴木氏が答えると、ガイドは日本に持って帰れないと言う。空港で没収されると言うのである。ミャンマーでは骨董的価値のある物は海外へ持ち出し禁止なのである。3万6千円はミャンマーでは1年分の給与である。日本の感覚では4・5百万円と言うことになろうか。
後で分かったのであるが、新品のサウンガウの値段は日本人価格で6千円から7千円程度である。調律できない、飾り物のサウンガウの値段は9百円位が相場である。したがって、ガイドさんがびっくりとしてしまうのも無理のないことであった。
まだ時間が少々あるので、再びダウンタウンへ行くことにする。喧騒とした中国人街に到着する。中国人街は人でむせかえっている。中国人街では、ミャンマー特産の布製のショルダーバッグを 170 チャットで買った。このバッグはシャンバッグと言い、多くの日本人がお土産として買って帰る。最初は負けないと店の人は言っていたが、あいにくチャットの手持ちがなく、街をふらついている鈴木氏から借りて再び同店に行ったものだから、今度は、向こうから少し安くしてくれた。日本円では 140 円程度である。
ミャンマーの伝統舞踊
中国人街を散策しているうちに夕刻が近づいて来た。ここで、鈴木氏が伝統舞踊を見ながら夕食を取ろうと言う。鈴木氏は、各国の伝統舞踊や演劇などが好きなのである。運転手に伝統舞踊を見せるレストランはないかと聞くと、カンドージー湖畔にあるロンマレーと言うレストランに連れて行ってくれた。ここで、運転手と別れることにして、料金を支払い荷物を受け取ることにする。毎晩7時から実演が始まる。少し時間が早かったので、お客は誰も来ていない。コース料理を注文する。古典舞踊、民族舞踊、竪琴の演奏、歌曲、蹴鞠などの実演が続く。日本人の一行が入ってくるが、途中で皆帰 ってしまう。我々は最初から最後まで鑑賞した。また、拍手を盛んに送った。料金は1人当たり6百円程度であった。
ミャンマーの伝統舞踊はタイの舞踊とはかなり違いがあり、手の指のしなりはそれ程大きくはない。タイの踊りはヒンドュー教の影響が色濃く出ており、「ラーマーヤナ」を主題としたものが中心なのに対して、ミャンマーの踊りは、土着の精霊信仰「ナッ」を主題としたものが多いように思われた。
また、歌謡は直立不動もしくは正座して歌い、昔、東海林太郎氏が歌っていたようにアクションは全くない。この国のストイックさを感じさせる。蹴鞠はロンマレーの名物で、様々な演技を実演して見せてくれた。
料金を払い、タクシーに乗って帰ろうとすると、今日1日一緒であった運転手が外で待 っている。また、同じ車に荷物を積み込む。ホテルまで2$と言う。レストランのウェイターの話では1$で大丈夫と言うことであったが、2$払うことになる。余程我々が良いお客であったと見えて、実演が終わるまで外で待っていたのである。
光り輝く巨大パゴダ
ヤンゴン到着3日目は市内観光である。今度は旅行の日程表に入っているので、ガイド付きの観光である。最初に行 ったのはシュエダゴンパゴダで、ミャンマー仏教の総本山的なパゴダである。
シュエダゴンバゴダは、ヤンゴン市街の北、シングッタヤの丘に金色に輝いて聳える。その高さは 99.4m、大小合わせて 60 を超える塔に囲まれた巨大なパゴダである。
エスカレーターが設置されており、エスカレーターに乗って降りると、そこがパゴダの中心地である。そこで見たものは金色に輝くとてつもなく大きなパゴダと、それに付随する無数と言ってもよい程の絢爛たる構築物である。完全に圧倒された。
こんな建造物を維持できる国が貧しいはずがない。写真を夢中になって何枚も撮った。
大パゴダの周りには、曜日毎の神様を祭ったコーナーがあり、人々は自分の生まれた曜日の神様の前で祈る。神様に水を掛ける。ミャンマーの伝統暦は8曜制となっており、水曜日が午前と午後との2つに分かれる。ミャンマー人の名前は、その頭文字で何曜日生まれか分かるそうである。母音で始まる名前は日曜日生まれである。例えば、私の名前はオサムであるから、都合良く符号する。
パゴダの基底部の周囲は 433mもあり、途方もなくなく大きい。おそらく世界最大のパゴダであろう。したがって、境内も広く、建造物を全部を見て回ることは簡単な行動ではない。駆け足で境内を回る。マハガンダの釣り鐘の所では、お坊さんがお布施を集めていた。1$紙幣が手元になかったものだから、10$紙幣を手渡した。お坊さんはびっくりとして、周囲にいた人に見せている。高額であったかららしい。ミャンマー語で幸せになるようにと祈ってくれたように感じた。その後で、釣り鐘の鐘を鳴らした。この鐘の重さは23t、高さは 2.2mあるそうである。
ミャンマーでは、パゴダ等の宗教施設を参拝するのには素足にならなければならない。イギリス統治時代、イギリス人は靴を脱がないで強引に施設内に入る者もあり、ひんしゅくを買った。境内には大理石の石板が敷き積められており、その部分だけは何故か余り熱くない。それ以外の所は猛烈に熱く、トタン屋根の猫のようになった。
獅子の玉座
シュエダゴンパゴダの次は、国立博物館に行った。観光年に合わせて完成したばかりの建物である。入口の受付の所に、お土産物店が併設されている。日本語で書かれた「ミャンマービジネス入門」小林株式会社と、マーマーティン・江口久雄著「ダイレクト会話ミャンマー語」を買った。40$と 25$であった。共にバンコク発行である。日本で買うと、それよりもかなり安く買えることがその後分かった。為替レートの関係らしい。
同所では、シルバー製の牛車の置物も買った。70$である。300$を現地兌換券と交換しているので、それを使い切らなければならないのである。兌換券はUS$と等価で、 300$以内の兌換券は再両替できない。こんなことまでして外貨を確保しなければならない同国の現状を考えると、複雑な気持ちにならざるを得ない。ミャンマーは外貨準備高が極端に少ないのである。
雑然とした大マーケット
博物館の後はダウンタウンに行った。昨日鈴木氏が頼んでおいたメガネを取りに行ったのである。ダウンタウンの北側には有名なボージョー・アウンサン・マーケットがある。マ ーケットの東隣はFMIセンターで、ヤンゴンでは珍しい近代的な建物である。4階までがショッピングセンターで、その上階層には日本企業などのオフィスが入っている。
ヤンゴンに初めて旅をした人は、ボージョー・マーケットとFMIセンターで買物をすれば、必要なすべてのお土産を買うことができるであろう。ボージョーは、ミャンマー語で将軍と言う意味である。ボージョー・マーケットはミャンマー最大で、瀟洒な外観をしているが、中は薄暗く雑然としている。各店は小さく区割りされ、衣料品、民芸品、宝飾品、骨董品などお土産にするような商品はすべてが揃っている。マ ーケットでは操り人形とロンジーを購入した。35$と 400 チャットであった。もっとゆっくりとしたかったが、帰り時間がせまって来ており余りのんびりとすることはできない。ロンジー屋では写真を撮った。
マーケットの中央のやや奥まった所にはボントンと言う店があり、日本人の赤松道子さ んがミャンマー人のご主人と共に経営している。ご主人は日本留学の経験があり、流暢な日本語を話される。FMIセンター3階には、岐阜大学に留学した経験のあるアウンナインさんの陽光堂という店が以前あった。アウンナインさんはあやしげな日本語を話し愛敬があったが、今は違う店になってしまった。陽光堂は、白檀製の日本人向きの土産物を売っていた。
ミャンマーとのお別れ
最初の旅はあわただしい日程であった。正味2日間のミャンマー滞在である。こんな短期間では、ミャンマーの実状はほとんど分からないであろう。しかし、我々2人は診断士である。街のレベルなどを把握することに関しては慣れている。そのために、街をぶらつき実際に買物をしてみる。お仕着せの土産物店での買物は、儀礼的な買物以外はしない。アジア諸国の大多数の商店では、正札が付けてなく違和感を持つ日本人も多い。しかし、店の旦那や店員とやり合って価格を決めることも楽しいことである。このためには、日本との価格差やその国の生活水準を理解しておかなければならない。
ミャンマー滞在中に不快感を持ったことは1度もなかった。何故か波長の合うものを感じた。ヤンゴン飛行場の近くで最後の食事を取る。地元の人たちが利用する食堂である。汲み上げた水を沸かして消毒している。食器などは何度も利用したたまり水のなかで洗 っているのみで、水を切ってそのまま持って来る。何十年前の学生時代に食べた屋台のラーメン屋と、同じやり方である。床は土間そのままであり、衛生的とは言えない。ナマズを焼いたものを頼んだ。後はサラダや油で炒めたものなどが出てくる。出された水を平気で飲む。私は日本ではしばしば下痢をするが、外国旅行ではほとんど下痢をしたことがない。
前日のバゴー訪問での我々の食事振りを運転手から聞いて、日本人用のレストランでなくても大丈夫とガイドが思ったから、こんな店に連れて来たものと考えられる。鈴木氏はすでに現地通貨チャットを使い果たして
いるので、私が清算する。余ったチャットはガイドにチップとして全額渡した。
幸い、鈴木氏が購入したサウンガウは、税関で没収にならなかった。飛行機に搭乗しようとすると、多くのミャンマ ー人が見送りに来ている姿が目に付いた。屋上デッキから多数の人が手を振っているのである。外国に出稼ぎに行く人たちを見送っているのであろうか。日本の昭和 30 年代や 40 年代初頭、外国旅行に行く人を一族郎党で見送った光景がよみがえった。