怖い国と言われたミャンマー―ミャンマーバッシングとその背景―

(一社)日本ミャンマー友好協会専務理事
ミャンマー経済・投資センター理事
中小企業診断士  都築 治
2015.6.5

1 怖い、物騒と喧伝された国            

(1)国際輿論に翻弄されたミャンマー

 ア 88年バマー式社会主義経済崩壊

  社会主義経済の行き詰まりにより、1988年中立を標榜し孤高的な政策を執っていたバマー式社会主義政権が崩壊した。同政権は、唯物論のマルクス・レーニン主義に依らない独自な社会民主主義的政策を掲げ、西側諸国にとっては共産主義への防波堤の役割も果たしていた。従って、日本政府はかつての同国侵攻への負い目もあり、多大な経済支援を行っていた。

1962年ネウィン将軍はクーデターを敢行し、バマー式社会主義政権を樹立した。政権発足当初は、社会主義経済は順調に滑り出したが、いつしか機能不全に陥り、結果的には同国の経済は困窮を極めることとなった。世界の最貧国の一つまで転落したのである。

抑え続けていた国民の不満は爆発し、ついに騒擾事件にまで発展した。それにより1千人以上の死傷者が出た。事件の発端は若者の些細な喧嘩で、それが大きな反政府運動にまで発展してしまったのである。この事件はフォーエイト(88年8月8日)事件と言われ、一般的には民主化運動とされているが、凶行事件等もあり評価が一様ではない。

  丁度この時、イギリス在住のアウンサンスーチー(1945年生れ、幼少からキリスト教系の学校に通う、1969-71年国連勤務、1985-86年京大客員研究員)が、たまたま母親の病気看護のために帰国しており、反政府闘争に駆り出されて民主化運動のシンボルとなった。

西洋式民主主義の思想を身に着けた一途なスーチーを、欧米のグローバリズが後押した。これに対して国家社会主義的な政権側は強く反発した。然し、経済破綻の現実には抗しきれず、89年3月社会主義のイデオロギーを放棄し市場経済を容認することとなった。

相次ぐスーチーの言動に焦燥感を抱いた政権は、スーチーの活動に制限を加え、同年7月自宅からの外出を禁止させた。

  

 イ 90年総選挙

  ようやく国情が安定を取り戻し、1990年5月、世界の輿論もあり公明な総選挙が行われた。旧政権側、スーチー側双方は、お互いに選挙後の体制づくりを深く考えていなかった。

政権側はよもや選挙に惨敗すると考えていなかったが、投票率72.5%の選挙結果、スーチー側(得票率60.38%、議員数80.8%)が圧勝した。にもかかわらず、経験不足や諸々の要因が重なり首班指名がなかなかできないでいた。

ぐずぐずしている間にも、国内に不穏の動きが見られるようになった。このため、治安維持の名目で旧政権側がそのまま居座ってしまった。アウンサンスーチーに期待を掛けていた欧米や国際メディアは、これに強く反発した。ミャンマーバッシングの始まりである。

91年12月、スーチーにノーベル平和賞を授与した。

 ウ 第一次ミャンマーブームの到来

94年6月春名丸紅会長を団長とする経団連ミッションがミャンマーを訪れた。95年7月にはアウンサンスーチーが軟禁状態を解除され、ミャンマーへの期待が急速に高まった。第一次ミャンマーブームが到来したのである。日本から多くの経済ミッションがミャンマーを目指し、当時は、ミャンマーかベトナムかと言われたほどであった。

観光ブームも起こり、多数のホテルが建てられた。政府は1996年を観光元年として振興策を試みたが、反ミャンマーの国際輿論等の影響があり、怖い国、物騒な国、治安に問題のある国と世間の人々から見なされ、結局上手く続かなかった。この時期に建てられた多くのホテルが、2012年第二次ミャンマーブーム到来まで、宿泊客がほとんどないまま荒れ果てた。

97年のアジア通貨危機により、ミャンマーブームはまたたく間に終わってしまった。ミャンマーに進出した日本企業の多くも、撤退もしくは規模の縮小を余儀なくされた。通貨危機の背景には国際的な利権が絡んでいた。

 エ 2003年ディベイン事件、スーチー襲われる

  政権維持に自信を持ち始めた政府は、2002年5月、2000年9月からの2度目の軟禁状態からスーチーを解放した。米欧や国際メディアの支援をバックにして、スーチーは盛んに各地を遊説し始めた。しかし、彼女に反感を持つグループによって、ザガイン地域(当時管区)モンユワ市近郊のディベイン村で襲われることになった。事件は、悪意のある謀略者らが主導した可能性が高い。

  この事件は謎が多く、政府側、スーチー側双方にダメッジが大きかった。彼女の安全確保の名目で、政府は3度目の自宅軟禁措置を取った。これに米欧は反発し経済制裁を強化した。日本政府も同調し、すべてのODAを一時中断した。

彼女の軟禁は、一般的に軟禁と考えられる状態とは趣が少し違う。スーチー邸は極めて広大な敷地内にあり、狭い部屋に閉じ込めるようなものではなかった。彼女の外出の自由を制限するのが目的であった。この間、アメリカからスーチーに有形無形の援助があったことは周知のことである。

緒方貞子(クリスチャン、1968年から国連に関わる。1990-2000年国連難民高等弁務官他)、オルブライト(ユダヤ系、チェコスロバキア生まれ、1997 – 2001年国務長官)、ブッシュ夫人(第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュ)などは、スーチーの良き理解者として有名である。彼女らは善意のグローバリストである。

また、米欧やそれに呼応する各メディアは、北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)労働総書記、ジンバブエのムガベ大統領、ミャンマーのタンシュエ国家平和発展評議会議長を名指しして、世界の三大極悪独裁者として喧伝した。

 オ 米欧の経済制裁強化

アメリカのミャンマーへの経済制裁の背景には、著名な投資家某をはじめロビイストの影が大きい。投資家某は経済制裁以前にミャンマー進出の石油会社に投資しており、ライバルへの参入障壁、既得権益の確保のために、経済制裁強化を強く世間に訴えたのが実情であると考えられる。彼らはタイとのパイプライン敷設により、莫大な利益を得ている。

経済制裁以前の投資は問題にしないという内約があり、さらには、英米の大手メディアは金融資本が押さえ、国際輿論の形成を図っている。また、米国の各議員は、選挙に勝つためには人権、正義、デモクラシーなどの良き理解者を装わないことには、当選はおぼつかない。ミャンマー、イラン、トルコなどは、それらに問題のある国として必要以上に口撃された。

この間、中国は2007年1月、国連安保理で米英が提案した新たなミャンマー制裁案を、ロシアと一緒に拒否権を発動して潰した。ミャンマーはますます中国寄りの国となった。

カ 2007年9月お坊さん主導?と言われる反政府デモ発生

  2007年、お坊さん主導と言われる摩訶不思議な反政府デモがあった。政府が燃料を突然値上げしたことに対して、僧侶が困窮する国民を見兼ね、政府への抗議のためにデモ行進を始めたと言うのである。これが大きな事件にまで発展し、死傷者さえ出た。

私は中小企業診断士で、経営戦略、兵法の本を何冊も読んでいたこともあり、当時、この行動は実にタイミングが悪く、なんと稚拙なことをしたものかと呆れたものである。私は関係者にインターネットで何度も配信した。このデモ行動には理がないと。これに対して、日本の各メディアの報道はデモ側に理解を示すものばかりであった。メディアの見解に同調する人は、私の傍から離れて行った。

デモをするには、誰かが扇動し、人々を動員しなければならない。資金力も必要であり、一介の僧侶のなせる業ではない。背後には、大きな支援組織があるものと考えた方が得心が行く。事件が起きるしばらく前に、米国の組織が100台余りのパソコンを活動家に供与し、資金援助を行っているとの情報があったのを私は知っている。

私は、NPOのザ・コンサルタンツ ミャンマーの会員と、2004年から2005年にかけてヤンゴンの有力なIT関連会社15社の実態調査を行っている。ミャンマーのパソコンの普及率も調べている。経済制裁下の当時の状況では、個人レベルではパソコンを所有することはほとんど不可能であった。

ヤンゴンから遠く離れたパコック町でデモは始まり、治安部隊との衝突がその日の内に写真付きで東京や世界各国に配信された。このことは通常では考えられないことである。前もって意図されたものであると考えない訳には行かない。当時のミャンマーはインターネットが余り普及していなく、業務用に使われている程度であった。地方のパコックから発するには、前もって準備しておかなければ極めて難しい。

デモの規模が大きくなり、衝突事件にまで発展した。民主派と言われている勢力に共鳴する日本の知識層の多くは、自分たちの主張が正しかったと喝采を浴びせた。これで国民の反政府活動が高まり、悪逆無道なミャンマー軍事政権が崩壊すると読んだのである。しかし、デモ活動は予期に反し、直に萎んでしまった。

余りにも、行動を起こすのにはタイミングが悪かった。パソコンを供与された者たちは、パソコンを供与した組織に気に入れられるような情報を選んで流し、またその組織は、反政府活動家の情報のみが真実と錯覚したに違いない。軍政側の情報はプロパガンダと考えたのである。当時、ミャンマー国内では取材活動はほとんど不可能であった。そのため、反政府活動の影の主謀者らは、スーチー政権実現の好機到来と読み違えてしまったのであろう。

この時期私は、自らが講師をする日本語教室のために何度もヤンゴンに通っており、市民の暮らしが向上しているのを間近に見、「昔は政府の悪口を言うとすぐ連れて行かれてしまったが、今はそんなこともなくなった。いい世の中になったものだ。」と言う声を聞いているからである。2004年のキンニュン失脚により、情報部局が壊滅的になっていた。

実は、デモが始まったのは、私が一か月以上のヤンゴン滞在から日本に帰国した翌日からである。ヤンゴン滞在中に、反政府のデモを起こすような市民の兆候は全く感じられなかった。

また、デモ側が言っていた「政府よりも、我々のパソコン技術の方が上だから、決して邪魔できない。」の言葉である。上記パソコン供与の情報と不思議に符号する。突然起きた不可思議なデモの背景には、国外の勢力が明らかに関与していたと言うことに他ならない。

この時、山口洋一元駐ミャンマー大使が「週刊新潮」に投稿、またテレビ朝日に出演した。番組に直接関係がなかったアメリカ贔屓の某防衛評論家が、大使に対するきつい言葉を発した。当時の日本人知識人のミャンマーに対する理解度を知ることができる。防衛専門家でさえ、ミャンマー国内の実情に少々疎かったのである。

このデモは、一般的にはお坊さん主導の、政府に対するささやかな抗議活動として巷間には流布している。が、大抵のポンジー(比丘、和尚)やサヤドー(僧院長、大僧侶、長老)はデモには賛同していなかったし、むしろ止めさせようとさえしていた。ましてや兵隊さんからのデモ参加はなかった。

困窮を極めた社会主義末期の時代と大きく違い、ガス田の開発や国境貿易の利益等に依り、ミャンマー経済は危機を脱していた。それに依り、僧侶は政権側から多大の援助を受けており、恵まれた地位にあった。連日その様子が国営テレビで放映されており、僧侶が如何に厚遇されていたかが分かる。多分に、僧侶に対する懐柔策であったであろう。

居心地の良い地位を自ら投げ出す奇特な人間は、僧侶といえども極めて稀なことである。その中でも稀な人は、世間から超越し、世の動きとは違う次元で宗教活動をしており、デモを扇動することはまず考えられない。本来のミャンマー仏教は、現世の利益を考えない。

88年の騒乱の時は多くの僧侶が参加し、一部の兵隊さんさえそれに加わった。今回のデモの主導者はお坊さんと言われているが、参加者の多くは僧籍を持たない見習い僧(沙弥、コーイン)で、中には偽坊主も沢山いたとの情報もある。ミャンマーではコーイン(沙弥)とポンジー(比丘)では、明らかに身分の違いがある。ましてやサヤドー(僧院長、大僧正、長老)の地位は非常に高く、彼らの発する言葉は絶対的な重みがある。彼らの賛同がなければ、デモは成功する筈がない。

次は日経新聞に記載されたものである。(2007.9.29)

日本のメディアの中で一番中立的で、文化度も高いと言われている日本経済新聞の「春秋」欄である。同欄は、日経社の最高の教養と知性、及び地位の高い人が執筆している筈である。にもかかわらず、そのミャンマーについての見識は驚くほどのレベルである。当時は、メディアのミャンマー国内取材はできなかった。そのためか、多くの点で見当違いが目立ち、私は記述した春秋子に訂正を求めた。

色々可笑しな点があり意見も少し述べたが、見解の相違で片づけられると考え、「2時間の通電時間」の訂正のみを求めた。ヤンゴンは仮にも500万都市である。1日2時間の通電で市民生活を送ることが可能であろうか。

私はヤンゴンにしばらく滞在していたから、そんな筈がないと述べた。春秋子は「それはあなたの考えだろう」と答えた。事実に見解の相違はないので、誰に聞いたかを問うた。彼はヤンゴンにいる二人から聞いた話だと返答した。当然、誰かは答えなかった。私は何度もミャンマーに行っており、その時は1か月以上滞在したヤンゴンから帰国したばかりである。停電が頻繁にあるのは確かであるが、1日2時間しか電気が通じないことは決してなかった。

私がつい文章の書き方がおかしいと彼に言ったものだから、プライドが傷つけられたと感じた春秋子が怒り出した。私は「そんなに怒るのなら、日経はもう取らない」と返答した。彼は、これに対して「どうぞ取らないでください」と答えた。それ以来、私は2014年1月まであらゆる日経紙の購読を止めた。末端の拡張員さんらが苦労しているのに、上層部の人の考えはこんなもんである。

しかし逆に、2011年以降日経新聞からは2回の取材を受けている。メディアのミャンマー取材の許可が下りる前は、NHKの番組制作会社、関西テレビ、朝日新聞、中日新聞、地方紙などから色々取材を受けているが、メディアに気に入った内容を話さないものだから、記事にしたと言う連絡はない。

上記、日経「春秋」欄には可笑しな点が色々あるが、数点のみ挙げて見よう。

軍事強権国家にとって日本は主要な経済援助国だ

ネウィンの社会主義国家の時代はともかく、タンシュエ政権になってから米欧の経済制裁に同調して、日本政府はほとんど経済援助を行っていない。確かにそれ以前は最大の経済援助国であったが、中国にその地位を奪われており、日本の経済援助は極めて少額であった。援助国と言うレベルではない。

ネピドーは「王の都」を意味する

メディアはネピドーと表記するが、外務省やジェトロなどは「ネーピードー」と表記している。ミャンマー語の英語表記では“Nay Pyi Taw”と表記され、ミャンマー国内では“nei pji do”と発音されている。Nayは太陽、Pyiは国、Tawは尊敬を表す語であり、原意にはどこにも「王の都」と言う意味はない。「太陽の(御)国」が正しく、転じて「首都」、「都」の意味になる。

王の住む場所を強調することにより、タンシュエ国家元首に巨悪な独裁者のイメージを植え付ける真意が垣間見える。

デモ隊には無差別に銃を放つ

「デモ隊には銃を放つ」なら多少容認できるが、無差別と言うことならば、幾らなんでも悪意に満ちた言葉使いである。無差別に銃を放てば、何千人の人が死んでしまう。これではいくら政権を擁護する立場の人でも、とうに見放したであろう。言葉の綾では済まない、軍隊イコール悪という思想が内心にあるからであろう。

住民と治安部隊が衝突する中で取材者としての身の守り方は十分に心得ていたであろう

亡くなった人の悪口は言いたくはないが、長井さんの撮影スタイルは戦場ではない、たかがミャンマーだとの思いが感じられ、安易に考えていたように思う。木村太郎、鳥越俊太郎が、地元になじんだ服装であるとテレビでコメントしていたが、私には全く異様な姿に映った。2015年の現在ならば違和感はないと思うが、伝統を尊びナショナリズムを信奉するタンシュエ政権下の時代では、考えられないような恰好であった。当時は、だぶだぶで半ズボンの人間はミャンマーではほとんど見られなかった。

変な恰好の者が、怪しげな行動をしているものだから、瞬間的に引き金を引いてしまったに違いない。当時のミャンマーは、カイン(カレン)族の一部と戦闘状態が続いており、鉄砲を打つことには兵士は慣れている。生死の狭間で戦っている彼らからすれば、考える前に反応してしまったのであろう。横たわっているのが日本人らしいと直に分かり、ビデオ機器どころではなかったと思う。

また、マハウィザヤ・パヤー(ネウィン・パヤー)の境内で、「お坊さんがいない。どこへ行ってしまったのでしょうか」と、長井さんが叫んでいるのが放映された。パヤーはお寺ではないので、そこではお坊さんは暮らしていない。パヤー(パゴダ)は僧侶が居住し宗教的な行事を行う施設ではなく、当然和尚(ポンジー)や見習い僧(コーイン)の姿はない。ミャンマーに入国する前に少し勉強すれば、パヤーには僧侶が居ないことは分かる筈である。但し、一般の在家のように、僧侶はパヤーに参拝する。

また、長井さんは観光ビザで入国しており、取材用のビザではない。法を犯しているが、一般的な観光客かビジネスマンの服装をしていれば、銃口を向けられなかった筈である。私は長井さんのために、彼を急遽派遣した某通信社の社長の方にむしろ責任を問いたい。

春秋子が批判しているネーピードーの最近の写真。国会議事堂の建物は完成し、敷地内には20棟以上の大きな建物がある。下の写真のパヤーは、ヤンゴンの聖なるシュエダゴン・パヤーに敬意を表し、幾らか小さく建てられている。兵隊さんを鼓舞するための、偉大な3人の英傑王の像も、市内の閲兵式の広場内にある。民主化が進んだ現在、新首都建設は不可能。ヤンゴンでは天文学的なコストが必要となる。

2005年パソコン研修
ミャンマー商工会議所連盟に寄贈した中古パソコン。
パソコンの普及状態とそのレベルが分かる。
2007年 日本語教室

停電が時々あることは確かであるが、電気が通じていなければ教室を開くことはできない。受講生の顔や服装を見ても、国内の各地を踏査しても、当時国中全体が困窮してあえいでいる気配はなかった。

2)米欧、行き詰まりの経済制裁

 ア 2008年経済制裁に懐疑的になる

  米欧諸国の多くは、自らの価値観に近い民主国家に衣替えさすべく、彼らからは人権侵害国に見えるミャンマーに経済制裁を科し、その上政治干渉さえ行って来た。2007年の大規模なデモ発生は、ミャンマーにグローバルな民主化国家実現の絶好のチャンスと捉えたが、目論見通りには事は進まなかった。

  ミャンマーは中国、タイ、インドとは長い国境線で接している。西洋民主主義と価値観の異なる中国は、国益のためミャンマー政権を擁護して来た。また、タイなどとの国境取引はミャンマー経済を支えて来た。

米欧の経済制裁強化により、中国が影響力を増々高め、さらに経済支援を強化した。中国主導により、インフラの整備も進み始めた。

そのため、ついに08年6月米議会調査局は「経済・外交制裁はミャンマーの体制変更につながっていない」と公表するに至った。

 イ 2009年アメリカ制裁解除の動き

   09年に就任したオバマは、「政治犯の釈放や、スーチーら野党を政界に参加させる政治改革をやれば、経済制裁を解除する」と明言するに至った。経済制裁路線からの軌道修正を考えたのである。

  この時から米国は、ミャンマーに強い圧力を掛けることが少なくなった。

    

ここに、グローバル社会の信奉者らの欺瞞を知ることができる。一般的には、圧力を掛けたことにより、ミャンマーの民主化、国際化が進行した。ミャンマーが変わって来たから経済制裁を緩めたとの見解が主力であるが、私は逆に、米欧のスタンスが変わったのが先だと考える。ミャンマー政権は、失脚したキンニュン元首相が2003年8月に発表した「民主化ロードマップ」を、淡々と実行しているだけである。

自分たちの方でスタンスを変えたのでは、今までの経済制裁や政治的な干渉は何のためであったかと問われかねないので、姑息にも、圧力を掛け続けたからミャンマーの民主化が進んだ、と言ったのである。その背景には、中国のミャンマーに対する影響が想定以上に高まったこと、ミャンマー国民の意識が高まって来たことなどが挙げられる。

 ウ 2010年11月総選挙

  90年選挙の轍を踏まないため、政権は満を持し、総選挙後の国家づくり承認のための、新憲法草案承認を求める国民投票を2008年5月に行った。投票率98%、賛成票92%であった。

  総選挙の準備が着々と整い、2010年11月総選挙が実施された。選挙前にスーチー率いる国民民主連盟NLDは分裂し、NLDは選挙参加を拒否した。投票率77%の選挙結果、連邦団結発展党(USDP)の圧勝で、78.7%の議席数を得た。少数民族の政党もある程度の議席数を確保し、一部の勢力を除き、選挙結果に強く異議を唱える組織はなかった。

 エ 2011年3月テインセイン政権発足

  選挙結果を受けて、正式にUSDP(連邦団結発展党)によるテインセイン政権が発足した。軍人主体の内閣ではあるが、経済界、文化人からも大臣や副大臣が何人か登用された。

世間は軍政の続きと考えたが、予想以上に政治改革が行われ、世界は同政権に注目した。

 オ 同9月ミッソンダム凍結

  テインセイン大統領は、中国が莫大な費用を掛けてカチン州で建設中のミッソンダムの建設を、2011年9月突然凍結した。世間はびっくりした。米国のミャンマー制裁の決議案を、拒否権を行使してまで中国はミャンマーを庇って来たのにである。また、多大な経済援助までして来た。

  凍結の背景には、アメリカや日本などから何らかのシグナルがあったと考えない訳には行かない。はたして、欧米の有力な財団等から関係改善・支援の要請が、米政府に送られていたとの情報があった。

ミッソン 2011年3月

聖なるエーヤワディ川の源流ミッソン。後方に建設中のダムが見える。

3)経済制裁解除へ ―第二次ミャンマーブーム到来

 オ 2011年11月ヒラリー・クリントンミャンマー訪問

  世間のミャンマーバッシングが止まったのは、米国の国務長官ヒラリー・クリントンがミャンマーを訪問した以降からである。彼女の訪問を契機に、アメリカのミャンマーバッシングはほとんどなくなると、世間やメディアは捉えた。

それ以来、各メディアの主張は従来と全く異なるものとなった。これが同じメディアかと疑うほどの変わり様であった。

   私は約20年間に亘り、ミャンマーバッシングには理がないと主張して来た。

ミャンマーの民主化運動の考え方に共鳴する人たちは、主に反政府活動家の情報に基づいてミャンマー軍政の非道さを喧伝して来た。また、少数民族のゲリラと共に戦って来た人や、その集落に入って生活を共にして来た人たちの著作も何冊か読んだが、当然反政府よりの姿勢を示すものだった。そして、これらの主張を必要以上に各メディアが評価し、世間に広く流布されて国際輿論のようになった。

軍政時代、反政府活動家やいわゆる民主化運動の支援者、文化人、メディア関係者のほとんどは、ミャンマー国内へ入ることができなかった。そのため一面的な報道となった。一方で、ミャンマー・ナショナリズムに理解を示す人たちのレポートや著作は、一部を除き、旧態依然な反動勢力と見なされてほとんど評価されなかった。

私は、実際に現地を見ないことには、ミャンマーの実情はよく分からないと考えた。特殊な例ではなく、普通の国民の実態を知ろうと思った。大都市ヤンゴンやマンダレー、観光地のバガンやインレー湖だけを見たのでは表面的と考え、地方都市や辺境地帯まで足を伸ばした。私は冒険家やジャーナリストではないので、少数民族との戦いが続く紛争地帯の奥までは行っていない。しかし、ガイドブックやミャンマーの概説書などで、行くことができないと言われていた地域まで足を伸ばしている。そこでは、国軍、州軍、民兵などが入り乱れ、銃を肩にそれぞれの領域を管理していた。2・30分車で走る度に、検問の遮断機がありチェックされた。

国内の各地を見て回った結果、ミャンマーから分離独立を図っている勢力、そしてアウンサンスーチーを応援している人たちには軍政は厳しい態度を取っていたが、一般国民に対する極悪非道さを見ることはなかった。そのため、ミャンマーの本当の姿を知って貰いたいと思い啓蒙活動を続けたが、最近まで労ばかりであった。

 カ 2012年4月補欠選挙実施

  2010年の総選挙で選ばれた議員の内、何人かが大臣や副大臣に就任したりして欠員できた。そのため、補欠選挙が行われることになった。選挙の結果NLDが国会議員43議席のうち41議席を獲得して圧勝した。

  このため、アウンサンスーチーの人気が極めて高く、連邦団結発展党USDPの人気が全くないように思われ、識者やメディアもそのように報道し、現在も、その考えを続けている人が多い。スーチーの人気があることは間違いないが、この選挙にはカラクリがあったことを忘れてはならない。

民主化が進んだと対外的にアピールするためには、スーチー側が選挙で勝つことが必要であったし、選挙は公正であったとしなければならなかった。テインセインはスーチー側に勝たせるために、USDPは一切の選挙活動をしてはならないと言明した。そのため、スーチーの顔写真やNLDの宣伝カーを街で見ることはあったが、USDP側のものは見られなかった。しかし、USDP側ももう少しの当選者を見込んでいたのは間違いなく、この点では思惑違いであろう。

スーチーが当選しNLDの圧勝により、各国のからの経済制裁解除の動きが本格化した。これにより、企業のミャンマー進出の動きが加速し、ミャンマーブーム再来の動きとなった。ミャンマーバッシングが終了したのである。

NLDの宣伝カー 2012.3
NLDの本部 2012.3

ミャンマーバッシングの背景には、英米のメディアを傘下に治め、グローバリズムを展開する金融資本の影があったことは明らかである。スーチーは巧みに操られていた様に見える。各界の知識人・文化人にまで、あたかも自分の考えで意見を述べているかのように信じ込ませるその業は、まさに驚異的で脅威である。

2015.01.25

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