パゴダは寺院ではない―パゴダと寺院の違い― 『中小企業診断士 都築 治』
日本国内で刊行されているミャンマーに関する書物や新聞、テレビ等では、ヤンゴンにあるシュエダゴン・パゴダやスーレー・パゴダをほとんどが寺院として表現している。「シュエダゴン・パゴダは、ヤンゴンで一番大きい寺院である」と記している著名人もいる。パゴダ=寺院である。著名な大メディアでさえも例外ではない。
これらは、ミャンマーにおけるパゴダ(仏塔)と寺院の意義を、全く理解していないことから、もしくは 勉強不足から来たものと考えられる。
ミャンマーではパゴダ(仏塔)と寺院(寺・僧院)は全く別の範疇のものであり、パゴダは決して寺院ではない。ミャンマー人の宗教観や生活を理解する上で、この点を心して欲しいものである。
パゴダは、一般の信者の寄進によって成り立っており、その管理、運営は在家の信者が行っている。僧侶が宗教的な行事をパゴダ内で主催することはなく、その境内に僧侶は住まない。パゴダは、一般信者の礼拝の対象であり、境内で催す仏塔祭などは在家の信者が主催する。
これに対してお寺(寺院、僧院)は、同じように一般の信者の寄進によって財政をまかなっているが、運営は僧侶が行っている。そこに居住し宗教的行事を行い、修行活動をしている。寺は出家の修行生活の場である。パゴダと寺院は宗教的な施設という意外、全く別なものである。
パゴダはミャンマー語ではパヤー(PAYA)と言い、仏塔自体はゼディ(ZEDI)と呼んでいる。パゴダは、端的に言えばお釈迦様の化身と考えても良く、仏像、仏塔、聖遺物などを総称しパヤーとして崇める。それ故、シュエダゴン・パヤーは仏塔自体がお釈迦様の化身と考えられているから、仏塔そのものを礼拝の対象とする。マンダレーのマハムニ・パヤーでは塔に対してではなく、中に安置されているマハムニの像を礼拝の対象とする。
同じくヤンゴンのチャウッタッジー・パヤーでは、横臥した釈迦像をパゴダ(パヤー)と呼んで礼拝する。古都バガンの有名なアーナンダ・パトーや、ダマヤンジー・パトーなどは塔にではなく、中に安置してある過去仏の四体の像を拝む。これに対して、シェズィーゴーン・パヤーは塔そのものがお釈迦さまの化身であるから、塔を礼拝の対象とする。
ミャンマー仏教の研究家で僧侶である生野善應師は、「ビルマ佛教寺院は、村落部では単独に存在し、都会では普通、土塀で囲まれる一つの境内に数寺院が集合して大規模な僧院を形成している場合が多い。」(「ビルマ佛教 その実態と修行」大蔵出版)と記し、寺院は僧侶が修行し、寝食する場であるとしている。
日本で刊行されているミャンマー関連の書物では、「寺院とは本尊となる仏像が飾られ、中に入って参拝することができる宗教的施設である」と定義し、アーナンダ・パトーやダマヤンジー・パトーを、それぞれアーナンダ寺院、ダマヤンジー寺院と呼んでいる。しかし、マハムニ・パヤーなどは塔内に仏像が安置され礼拝されているが、寺院とは言わない。
原田正春・大野徹著「ビルマ語辞典」では、パトー(PAHTO)を「レンガ造りのパゴダ」、また「内部に回廊をもつ寺院」と定義している。ミャンマー教育省発行の「ミャンマー語辞典」では、パトー(PAHTO)を「煉瓦造りの仏塔」と簡潔に定義し、同じく「緬英辞典」では「アーチ形の基部を持つ塔」とのみ定義している。パトーを寺院(ポンジーチャウン)とは定義していない。
小学館発行の「国語大辞典」では、寺を「仏像を安置し、僧や尼が住んで、仏道の修行や仏事を行う建物。寺院。」とし、寺院を「寺とそれに付属した別舎の総称、また寺をいう。」としている。また僧院は、「寺で僧侶の住居である建物、また、広く寺院をいう。」と定義している。また、ミャンマー教育省発行の「ミャンマー語辞典」では、ポンジーチヤウン(寺院)を「出家僧侶たちが修行する建物」と定義している。
ここで少し疑問がある。それは、日本語に適応する言葉がないためか、アーナンダ・パトーやダマヤンジー・パトーなどを、寺院と表記していることである。パトーは、明らかに上記の定義からして寺院とは言えない。私はその形状と実体からPAHTOを「塔堂」と訳してみたい。パトー内で僧侶が寝食し、仏道の修行をすることはない。
以下パゴダと寺院の違いをまとめて見ると、パゴダ(仏塔)は在家の信者が管理して運営を行っており、パゴダ祭り等の行事は僧侶とは直接の関係なしに一般の信者が執り行う。僧侶はそれらについては関知しないし、パゴダの境内に居住しない。
一方寺(寺院・僧院)は、在家の信者の布施によって成り立っているが、運営は出家の僧侶に委ねられている。そこで生活して、仏事や仏道の修行を行っている。パゴダ(パヤー)は一般信者の信仰の場であり、寺院・僧院は和尚(ポンジー)及び見習い僧(コ―イン)の修行の場である。