ミャンマー訪問の点描視

ヤンゴンの繁華街(旧国鉄跡地の建設)

(一社)日本ミャンマー友好協会 副会長
髙松重信

今般2022年4月24日から一か月少々、御縁によりミャンマーへ渡航し、現地の実態に触れたり、親友と旧交を温めたりしましたので、その点描を以下に紹介します。

目次

ミャンマーに向かって

4月23日成田空港から日航機でマレーシア向けへ出発した。先の大戦の初頭1941年12月22日、縁者がこの地で英国軍機と大空中戦を演じたことをふっと、脳裏を過りながらクアラルンプール空港へ到着した。すぐに空港職員の誘導で窓口へ行き「日本で3回のワクチン接種&PCR検査証明、その他の書類」を些か緊張した面持ちで審査を受け、無事パスし、フェイス・ガードシールスを貰い、空港内のSホテルに一泊し、翌朝24日のフライトで、ミャンマー・ヤンゴン空港へ昼過ぎに到着した。

街中の様子(ヤンゴンとその近郊)

今も健在インヤ・レークのデートコース

5日間の隔離ホテルからの早朝の光景は素晴らしく、朝霧に覆われたヤンゴンの街中及びヤンゴン川に浮遊する船々の姿は正に水墨画を流したような一種独特のヤンゴンの匂いと穏やかな印象を与えてくれる。

霧に包まれたヤンゴン川
ヤンゴンのサンセット

隔離解放後、所要でヤンゴンの街中とインセイン市及びティラワ港近くの経済特区(SEZ)などへ行ってきました。

昨年の政変で街中は警備がさぞや厳しいと想像していましたが、豈図らんや1988年及び2007年とは異なって国軍兵士や治安警察の姿を殆ど見受けられなかった。ごく限られた要所にはミャンマー流による形だけの土嚢を積んだ、吹けば飛ぶよな簡易な監視所(トーチカ?)が設けられていて、主に警察官がその付近で椅子に腰かけていました。また、要所には有刺鉄線を張った型枠のバリケードが千鳥に道路を囲い障害として設置されていた。自動車運転手はその間をジグザグに縫うて通過する関所もあった。2008年頃はホテルや駅などで何時もいた秘密警察官が、今回は見当たらなかった。

ヤンゴン市内のデパート、スーパーマーケット、レストランなどは多くの若者も含めた顧客が大勢いて、多種の品物も豊富にあり、靴の大売り出しもやっていた。

ヤンゴンのデパートの若者達

ガソリンが2倍に高騰していたが、ヤンゴン名物自動車の渋滞も力強く?復活していた。

ヤンゴン名物?交通渋滞

街中を少し外れたヤンゴンやインセイン及びマラゴン地区の路地裏では屋台や小間物店がこのコロナや政変の風雨に耐え、息を吹きし営業していたのは生活苦からもあろうが、安心感と庶民の生活力の逞しさを感ました。

路地裏の食堂(マラゴン・地区)
路地裏の小間物屋
ヤンゴン市の花屋さん

滞在ホテルの休日などは雨季前の駆け込み結婚式が行われていました。お陰様で美しい花嫁さんにお目にかかり、目の保養になりました。

他方、前政権の親友へ電話を入れたところ、先ず彼は緊張した声でWho are youを数回繰り返した。私だと理解すると彼は即く安心した。盗聴も考えてお互いは孫の話や笑い話を致した。私は彼や家族の安全と健康が確認でき安堵しました。このように平静的な状態であったからやや調子抜け感を持ちました。

しかし、途中で出会った軍隊や治安警察車両の後部座席の兵士達は銃を水平に構え、引き金に指を添えており、目は緊張している様子を見かけたとき、隠れた現実の厳しさを再認識しました。

ヤンゴン~ネピードへの高速道路

ヤンゴンから首都ネピード間(320Km)へ自動車で2回行ってきました。高速道路の入り口と中間地点と出口に検問所が設けてありました。私達は公用証明書を持参していたからかもしれないが、大した尋問もなくそれらを通過できました。他の自動車も大同小異、同様な検問様態であった。道路は以前に補修されていたところは快適走行であったが、余りメンテナンスが行われていなかった。

高速道路のサービスエリア・食堂

途中の検問所でトラックが警察官に尋問を受けていた。それとなしに聞いてみると、積んでいた多くの食用鶏を「ロハ」で譲ってくれと言っていた。政変があろうとなかろうと、このような風物詩は今も昔も相変わらず健在?でした。
ゲリラ的な襲撃も時にはあるらしく安心は禁物ですが、先ず問題なく通行できます。

ネピード市内及び近郊

自動車で行く途中、交通整理をする男女の交通警察官の姿と極限られた検問所にいる少数の兵士や治安警察官しか見当たらなかった。国軍師団の駐屯地の前を通りましたが、特段の警備もなく衛兵がいつもの通り立っていたに過ぎなかった。街中は以前と変わらず森が多くゆったりとしていた。ヤンゴンと同じく大型スーパーマーケットも営業しており、店内の品物も豊富であり、顧客も多かった。私はこのスーパにある理髪店でマッサージ(約20分)を兼ねた理髪をして頂いた。料金は込みで9000チャット(MMK)(620円)でした。

ネピードの友人達と数回に亘り、夜の居酒屋に行きました。この付近はローカルで料金も高くない中級の店々が少なからず営業されていた。友人と午後6時半ごろからその居酒屋の2階で風に吹かれて、イール(Eel)の小魚、唐揚げ、豚煮と現地野菜のサラダとビールで昔話や将来につて愉快に懐古談していると、男女の若い人たちで満ち溢れ、階下を見れば、庭先のテーブルも顧客で賑わっていました。

友人との小宴(ネピード居酒屋)

ある日、訪問先へ行く道中、いつもの道が閉鎖されていた。理由は裁判所で政変に伴う重要人物の尋問がありと聞き、ふっと現実の厳しさを思い出しました。

現地の物価

ガソリンが2倍に高騰しており、これに伴う物価高もあるが、多くはそんなに高騰していなかった。以下の料金は従前とほぼ同じ。サンドウイッチ1700MMK(117円)、イチゴミルクセーキ1800MMK(124円)、日本食+ビール1本10000MMK(690円)、ヤンゴンのA級ホテル一泊80USドル(短期宿泊)、ネピードA級ホテル一泊70USドル(短期宿泊)、ゴルフ練習100球9000MMK(620円)、その他の豆乳、パンなどもほぼ従前と同じであった。

テレビ報道と通信

テレビはBBC、CNN、中国、韓国、ミャンマー国営・民放とNHK・PRENIUM(日本語)を制限なく見ることが出来ました。Line 及びViberによる日本との交信は、高速道路でも良好であった。

和平、来年の総選挙を逃してはならない

同じ民族同士の国軍とNUG(PDF)は全くの対立状態であり、話し合いの兆候すらもない。暫定政府(国軍)による政変には理解できる面もあるが、その後の政策は良いとも言えない。最近の政府の兌換(だかん)政策は「タコが自身の足を食する」自殺行為に近い経済政策の愚をなしている。

一方、NUGは民主化を取り戻すために昨年9月7日に国軍へ宣戦布告を行い、国軍を打ち倒す可能性が無い武力闘争及びテロ攻撃をしている。その中で長期に渡るCDM運動は教育、医療、産業、経済の国家機能を麻痺させている。

この様な中で時代を担うミャンマーの若者は海外に職を求めて流出している。その数は多大になっている。このためにヤンゴン空港では海外渡航の若者でごった返していた。また、ヤンゴンのパスポート発行局前には連日若者の列が行く折にも蛇行して並んでいる。誠に悲しいことで将来のミヤンマーが案じられました。
現下の戦いは長引いているから、双方は国家国民のために重要な分野は戦いから除外するか、限定的にすべきと思います。

パスポート取得の若者達

中国がいよいよ「韜光養晦(とうこうようかい)」戦略から脱皮し、自国のために暫定政府(国軍)へ本格的な支援(進攻)を開始し始めている。我が国は1988年及び2007年と同じ轍を踏んではならないと思います。
何れにしても、来年のミャンマー選挙結果がどれだけ世界に納得されるかが重要であり、この為にも今年の12月が山場になると思われます。従って、我が国もASEANと共同して、先ず双方がASEAN5項目の特に第一項の妥結が可能になるために、支援すべきと思う次第です。        

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