旅行案内Ⅰ(ヤンゴン、バガン、マンダレー)
日本ミャンマー友好協会 専務理事
中小企業診断士 都築 治
1 ヤンゴン
ヤンゴンはミャンマー第一の都市で、2006年までミャンマーの首都でありました。ヤンゴンは、古くからシュエダゴン・パヤーをいだく聖地 ダゴンとして知られていましたが、小さな村でしかありませんでした。ミャンマー最後の王朝コンバウン朝を創始したアラウンパヤー王は、1755年長いモン族との抗争の末ようやくこれを下し、当地を「戦いの終 わり (宿敵殲滅) 」と言う意味の「ヤンゴン」に改名しました。
その後、1824年、52年、85年の三次に及ぶ英緬戦争の結果、ミャンマーは全面的にイギリスの植民地となってしまいました。そして、この地は港湾都市としての立地の良さに目を付けられました。現在のヤンゴンの整然とした街並みは、イギリス統治時代の遺産です。ヤンゴンの都市計画を描いたのは、エンジニアのフレーザー中尉でした。彼はシンガポールの都市計画を立てた人としても知られています。
また、ヤンゴンは「ガーデン・シティ」としても広く知られ、緑が豊かで、雨季明けにもなると様々な花が咲き乱れるのが見られます。さらに、植民地時代の多くのビクトリア朝建築が、南国ムードを一層高めています。
市内の各エリアではホテルやショッピング・センターの建築が進み、現在では車の渋滞が慢性化する程になっています。近代的できれいな建 物と、古い汚い建物の対比が興味を引きます。
(1)ヤンゴン市内
ア シュエダゴン・パヤー
シュエダゴン・パヤーの高さは99.4m、基底部の周囲433m、付随す る小パヤーの数は64を数え、圧倒的なスケールで参拝者を魅了します。 ミャンマー仏教の総本山とも言える存在で、連日ミャンマー各地からの
参拝者が絶えません。
金色に輝くパヤーの最頂部にある聖なる傘は、76カラットのダイアモンドを中心に何千個のダイアモンド、ルビー、サファイア、翡翠などの宝石で飾り付けられています。けれども、高過ぎて肉眼では識別するこ とはできません。パヤー本体に貼り付けられている金薄板の総枚数は 、約9,000枚、60tに及ぶと見積もられています。
シュエダゴン・パヤーの歴史は、2500年前まで遡ることができます。その昔、インドを商用で旅していたモン族の兄弟が、釈尊が悟りを開かれ仏となったのを知り、ゴーダマ仏陀に面謁し食べ物を供養して8本の聖髪を賜りました。国に帰った兄弟は、モン族の王カーカウンナティターに聖髪を差し上げました。王はすでに成道し、過去仏となられていた狗留孫仏、狗那含牟尼仏、迦葉仏のご遺物と共に、シングッタヤの丘に8本の聖髪を安置しました。原初のパヤーは9m程度の高さでした。
その後、長い間ゴーダマ仏陀の聖髪が安置されているのを知る者はいませんでした。
釈尊入滅236年第3回仏典結集後、アショーカ王の命によりインドから仏教布教のために長老が訪れました。その時、布教僧たちが モン族の王にパヤーを再建、修復するように説きました。以来、モン族の王がシュエダゴン・パヤーを修復するようになりました。 時は進み、1362年にバゴーの王ビンヤ・ウはパヤーを改修し、22 mまでに高めました。15世紀中期、女王シンソーブは現状とほぼ等 しいものに改修して、自分の身体と同じ重量(40kg)の純金を寄進し、薄に加工しパヤー全体を黄金で装飾しました。その後、この行為は多くの王族によって繰り返されることとなりました。
シュエダゴン・パヤーには見どころがいっぱいあり、とても1度の訪問ですべてを回りきれるものではありません。
なかでも、北入口の東側にあるナウンドウジー・パヤーは、ひときわ多くの参拝者で賑わっています。ここは、伝説の8本の聖髪が仏塔に収められる前に、最初に安置された場所と言われています。このパヤーは兄さんパヤーと言われ、大パヤーのミニチュア版の形をしています。
ミャンマーの伝統暦は8曜日制を採っており、水曜日が午前と午後の2日になります。各曜日には方角、シンボルとなる動物、星などが割り振られています。境内には各曜日の守護神を祭っているコーナーがあり、善男善女が一心に祈念して水をかけている様子が見られます。自分の誕生日の曜日を調べ、該当する神さまにおまいりするのも良い思い出になることでしょう。
北入口と西入口の中間辺りには、マハガンダの釣り鐘があります。このブロンズ製の釣り鐘は、1825年第一次英緬戦争の時にイギリス軍の戦利品となり持ち運ばされそうになりましたが、舟がヤンゴン川に転覆し沈んでしまいました。イギリス兵の力ではどうしても浮かび上がらせることができませんでした。けれども、ミャンマー人の僧侶の叡知によって、見事浮上させることができました。その具体的な方法は明らかになっていますが、ここでは秘密にしておきましょう。
鐘の重さは23t、高さ2.2m、口径1.95mです。さらに大きな釣り鐘がナウンドウジー・パヤーの南側にあります。この釣り鐘はマハティッサダの釣り鐘と言い、重量42t、高さ2.55m、口径2.3mです。しかし、何と言っても参拝に来ている人たちの様々な表情を眺めてい ることほど、興味深いことはありません。国中から多くの人たちがやっ て来ており、祈ったり、瞑想したり、昼寝をしたり、弁当をひろげたり などの様子は、日本の仏教施設での参拝と違う明るい雰囲気があります。
イ スーレー・パヤー
シュエダゴン・パヤーをヤンゴンの「魂」とするならば、スーレー・パヤーはヤンゴンの「心臓」と言ってもよいでし
ょう。ダウンタウンの中心にあり、高さ48mの八角形のパヤーは、昼は太陽の光、夜は照明によりライトアップされいつも光り輝いており、ヤン ゴンのランドマークとなっています。創建は古く、2千年以上の歴史があり、釈迦の聖髪が安置されていると信じられています。
ウ ボータタウン・パヤー
ダウンタウンの東南部、ヤンゴン川沿いにボータタウン・パヤーがあります。ボーは「士官」、タタウンは「1千」を意味します。千年以上も昔のこと、インドから仏陀の遺品を僧侶が携えやって来ました。その 護衛に当たっていたのが1,000人の兵士、ボータタウンです。仏陀の遺 品は護衛兵に守られ、大勢の人々に畏敬の心をこめて受け取られました。
このパヤーは、第二次大戦の時に爆撃を受けてしまいました。改修工事を始めると、瓦礫の中から数多くの遺物が現れ、聖髪など釈迦の遺品と思われるものが多数発見されました。このバゴダは内部が回廊になっており、モザイク状の小さな鏡がはめ込まれた壁面により迷路のような気分が味わえましたが、改修されて黄金色の壁面になりました。ミャンマー人は、日本人と比べると情緒感に乏しいのかもしれません。
エ チャウタッジー・パヤー
高さ17.7m、長さ65.8mの巨大な寝釈迦像が、シュエダゴン・パヤーの北東徒歩で30分くらいの所にあります。20世紀初頭1909年に建立されたもので、歴史はそんなに古くはありませんが、その大きさと、たおやかな面差しが感動を与えます。
足裏には彫刻がなされており、合計で108個の桝目にはそれぞれ古代仏教の宇宙世界などが描かれています。
オ ボージョー・マーケット
ヤンゴンで最も有名なマーケットで、ボージョー・アウンサン通りに面し、ショッピングモールのジャンクションシティのはす向かいにあります。イギリスの統治時代はスコット・マーケットと呼ばれていました。屋根は淡いピンク色、白い壁の瀟洒な外観ですが、内部はやや雑然としており何百の店舗が張り付いています。
民芸品、骨董品、宝飾品、雑貨、衣類など、お土産にするようなものはあらゆる種類の物が揃っています。内部の店は小さく区割りされおり楽しく回遊できて、何時間居ても飽きることがありません。
上座部仏教を信ずる国民性の所為か適正価格の店が多く、よその国で 見られるようなふっかけた価格の店はほとんどありません。しかし、価 格交渉の余地は多分にあり、店によっては値引き要求に応えてくれます。今後、さらに日本人客が行くようになると、丁々発止になるかも知れま せん。「ゼェ ショー ナイン ダラー(安くできますか)」、「ゼェ ショウペーバ(安くして下さい)」などと言って見ると、少々安くしてくれる かも知れません。
カ 宝石博物館
インヤー湖の北東、ガバエー・パヤーに近接して宝石博物館があります。4階建ての建物で、1階から3階までが宝石のショッピング・フロア、4階が博物館になっています。博物館では、ミャンマー産のルビー、サファイア、翡翠、真珠などが展示されており、宝石について詳しくなれそうです。ショッピング・フロアには、何十店もの宝石店が営業しており、価格交渉など、ゆったりと買物が楽しめます。
(2)ヤンゴン近郊
ア チャイカウ・パヤー
チャイカウ・パヤーは、タンリンの南約3.2kmの山の上に建っています。このパヤーは約2300年前にタトンのモン王達によって建てられ、仏陀の6本の聖髪と額の一部の骨が祭られていると信じられています。現在の形になったのは600~800年前のことで、高さは56.4mです。
イ イェーレー・パヤー
タンリンの南12km、川の中程にイェーレー・パヤーがあります。このパヤーは①基壇が決して洪水に流されないこと、
②基壇は礼拝者すべてが入れるぐらいの大きさであること、Ⓒ寄進者がすべて裕福になること、という3つの聖なる誓いから建てられました。
1271年に法律家のウ・バトゥンとその妻ドー・テが夢を見て、この地にやって来ました。彼らは小さなパヤーが壊れているのを見て、現在のような4段の基壇のある15.5mの高さのパヤーを再建したものです。
ウ トゥオンテ
トゥオンテは、ヤンゴンから汽船で、2時間ほどで行くことができる
運河に沿った小さな町です。運河の船旅はそれだけでも楽しいものであり、ミャンマーの田園風景を見る良い機会でもあります。トゥオンテは陶器つくりでもよく知られています。
2 バガン
ミャンマーにおいて最も驚嘆する所として、多くの人は世界遺産旧都バガンの遺跡を第一に挙げることでしょう。エーヤワディ川の東岸、42 平方kmに及ぶ大地に、現在2,300を超えるパヤーやパトーなどが点在しています。カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥ―ルと並んで、世界の三大仏教遺跡の一つに数えられています。
バガンは、ピュー族の王タムッダリが西暦107年エーヤワディ川の岸辺のヨンルチュンと呼ばれる所に在った19の村々を統一して、都を造ったことから始まると伝えられています。バガンの都は4度も移され、現
在のバガンは第4番目の王朝の地域内にあると伝えられています。パガンを支配した歴代の王の中では、第4番王朝のアノーヤター王が最も強力な王でした。
アノーヤター王(在位1044~1077)に始まるバガン朝は、1044年から元のフブライハンによって1287年に滅ぼされるまで、約230年間に亘って11代続きました。バガン朝は、バマー族最初の統一王朝でした。 バガンはマンダレーから南西に193kmの所にあり、年間の平均降雨量は640mmに過ぎません。赤茶けた大地に展開する遺跡の数々は、圧倒的なスケールで訪問者を吃驚させます。主なパヤーやパトーだけでも40以上もあり、一度の訪問ではとても回りきれるものではありません。1975年、2016年の大地震によって多くの遺跡が多大な損傷を受けましたが、現在ではほとんどが修復を終えています。
(1)ニャンウー、ウェッチーイン地区
ア ニャンウー・マーケット
ニャンウーはバガン地区で一番開けた町で、交通や交易の要所となっています。マーケットでは、各種食料品、衣料品、家庭道具などあらゆる種類のものが売られており、終日開かれています。この地域の土産品も数多く陳列されています。マーケット内は雑然としており、値引き交渉にも十分応じます。このマーケットはミャンマーで一番観光慣れをしており、多くの売り子が日本語で攻勢をかけて来ます。近年韓国からの観光客が増え、多くの韓国人が日本人と間違えられ、日本語で話し掛けられている様が滑稽でもあり、愛嬌であります。
イ シュエズィーゴーン・パヤー
バガンを代表する大パヤー。シュエズィーゴーンは、ミャンマーで最も崇められているパヤーの一つで、仏陀の遺骨と4つの聖歯が納めら れていると信じられています。バゴダの建設は1031年にアノーヤター王によって始められ、1090年にその子チャンシッター王の治世に完成しました。
シュエズィーゴーン・パヤーは3段の基壇、鐘状の輪環を持ち、上向きと下向きの蓮の花弁、天上への階段があります。シュエズィーゴーンは、その後数多くのミャンマー・パヤーの原型となりました。シュエは黄金、ズィーゴーンは砂の川岸を意味します。シエズィーゴーンには、大小さまざまな黄金の釈迦像が納められており、境内も大変広く見上げる搭の見事さにうっとりとします。
ウ ティーロミンロー・パトー
ティーロミンロー王によって1218年に建立された、2階建ての赤いレンガ造りの大パトー。高さが46mあり、バガンで二番目に大きいパ トーで、1階と2階部分には各4体の仏像が安置されています。
(2)オールドバガン地区
ア アーナンダ・パトー
バガンで最も優美で、最も人気のあるパトー。タラバ門の近くにあり、チャンシッター王によって1091年に築造されました。
本堂の一辺は53mの正方形で、四つの入口があります。高さ51m、夕日に映える金色の尖塔の美しさは目を見張らんばかりです。
本堂の東西南北には、高さ9.5mの黄金の仏像が納められています。南北の二つは建立時のもので、西面は釈迦牟尼仏、北面は拘留孫仏、東面は拘那含牟尼仏、南面は迦葉仏です。また、釈迦の生涯を表した80個の浮き彫り彫刻も注目すべです。
イ タラバー門
九世紀に造られた城門で、今に残る僅かな城壁の名残です。門の両側には、バガンを守る兄妹神の「ナッ」が祭られています。近年修復され、コンクリート製の階段が調和を乱しています。
ウ マハボディ・パヤー
マハボディ・パヤーは、インドのブッダガヤの同名の建造物を模して建てられたもので、ミャンマーで見られる珍しい様式の建物です。ピラミッド状に細長くそびえる尖塔は、仏像が納められた多数の小さな祠で荘厳されています。
エ ブーパヤー
エーヤワディ川の岸辺に建つ小さな円形のパヤー。エーヤワディ川を上り下りする舟の目印となっています。バガンで最も古いパヤーで、ピュー様式を伝えていると言われています。このパヤーは、ピューゾーティ王が巨大な瓢箪の蔓を取り除いたことを記念して建てられたもので、ブーパヤーとは「瓢箪のパヤー」を意味します。
オ ゴードーパリン・パトー
バガンで二番目に高いパトー。伝説によればナラパティシトゥ王が祖先の人々に対して行った悪口の罪を悔い、この土地で祖先に敬意を表して、ゴードーパリン・パトーを建立したと言われています。タッビンニュ・パトーに似ており、高さは55m。本堂内の回廊には、4体の金箔で覆われた仏像が祭られています。夕陽を見るには絶好の場所でしたがが、建物の保護のために、現在では上層階に上ることは禁じられています。
カ シュエグジー・パトー
アラウンシトゥ王によって1131年に建てられたパトーで、少し小さい建物ですが、優美なたたずまいを見せています。内部の壁面には美しい化粧漆喰の彫刻の跡があります。また、パトー建立の経緯が記された石板もあり、完成までに7か月を要したと刻されています。
キ タッビンニュ・パトー
バガンで一番高いパトーで、高さは61m。1144年にアラウンシトゥ王が建てたものです。何となく日本の国会議事堂に外観が似ており、他を圧倒する貫録が感じられます。タッビンニュとは「全知」を意味すると言われています。
暗闇の中にライトアップによって浮かび上がる塔は、大変美しいものです。このパトーの隣には木造の僧院があり、境内には第二次大戦の日本軍兵士の慰霊碑があります。
ク シュエサンドー・パヤー
1057年モン族の都タトン征服後、アノーヤター王によって建立されま
した。バゴダの内部には、モンに伝わる釈迦の聖髪が納められていると信じられています。パヤーは5層からなる基壇を持ち、急な階段を登りその最上階から眺める夕日は、見事で感動的でした。
ケ ダマヤンジー・パトー
バガンで最も大きいパトー。父と兄を暗殺して王位についたナラトゥ王によって建立されました。建設途中でナラトゥ王もまた暗殺されたため未完に終わっています。一説によると、現在でも夜になると亡霊が出るといわれおり、地元の人間も、夜間には恐くてなかなか近づかないそうです。
レンガ造りの緻密な細工のパトーで、がっちりとした6層からなる基壇と、それらをつなぐ真っ直ぐに伸びた急勾配の階段があります。また、建物の内部には仏像や壁画が数多く残されています。
コ スラマニ・パトー
1183年、七代目の王ナラパティシトゥによって建てられたパトーです。建物は2階建てになっており、1階には、東西南北に赤く塗られた4体の座像が納められています。内部の壁面や天井には、仏伝図や釈迦の前世を描いた本生図が残されている。
サ ミンガラゼーディ
バガン王朝最後の大パヤーで、プロポーションの良さで知られています。3層の基壇からなり、壁面には釈迦前世物語ジャータカを題材にして描写された粘土板がはめ込まれています。最上階からの眺望は絶景で、目を見張るような光景が広がり、上階まで上ることが許されている数少ないパヤーでしたが、現在では建物保護のため上ることができなくなっています。
シ バガン博物館
ゴードーパリン・パトーの隣にあり、数多くの仏像や財宝が展示されています。ミャンマーのロゼッタストーンと言われるミャゼーディ石柱が展示され、古ミャンマー語、モン語、パーリ語、ピュー語の四つの言語で、同じ内容の文章が刻まれています。同様の石柱が、もう一つミャゼーディにもあります。
(3)ミンガバー地区
ア マヌーハ・パトー
マヌーハはモン王国タトンの王で、アノーヤターとの戦いに敗れてバガンに連れて来られました。マヌーハはパトーを建てることを許され、財宝を売り払って1059年にこのパトーを建立しました。建物の随所には屈折した王の気持ちが表れているとい
われ、3体の座像と1体の涅槃仏が安置されています。どれも窮屈そうな空間に納められています。
イ ナンパヤー・パトー
ナンパヤー・パトーは、砂岩とレンガでもって建てられたバガンで唯一の建物で、パトーの内部には古代イン
ドの創造神、梵天の浮き彫りが施された四つの石柱があります。梵天は、組み合わされた灰色の砂岩のブロックに刻され、カンボジアのアンコールワットで発見された彫刻とよく似ているそうです。
ウ アベヤダナ・パトー
チャンシッター王の第一王妃、アベヤダナの名前に由来する堂々たるパトー。内部には釈迦の大きな座像があり、回廊の外壁には、菩薩もしくは未来の仏陀の浮き彫りが、内部の壁面にはインド神話の梵天、ヴィシュヌ、シヴァ、帝釈天の浮き彫りがあります。
エ ナガヨン・パトー
チャンシッター王によって建てられたミンガバー村で最も優雅なパ トー。通常は、維持保存のため閉められています。兄サゥルの怒りをかわすために造った建物で、回廊の小さい祠には仏陀の物語が刻された浮き彫りがあり、壁面は色彩で装飾されています。
(4)ミンナントゥ地区
ア パヤートンズー
三つの小さな塔の組合せから成るパトー。仏陀、仏陀の教え(法)、僧伽(僧団)を表現していると言われています。13世紀後半に建立されましたが、フブライハンのバガン侵略により、ほどなくして見捨てられました。建物のデザインは、タイに残存するクメール仏教様式とよく似ており、仏陀を題材にした多くの壁画が残っています。
(5)バガン近郊
ア ポパ山
バガンの南東約50kmの所にポパ山があります。標高1518m、40平方kmの山域を持ち、平原の中に孤立しているので実際以上に高く見えます。ポパ山は死火山であり、多くの峡谷を持っています。山自体はワイン・グラスの形をした高原部門と主峰の2つからなっています。地理学者の説によれば、この山は少なくとも200万年から300万年前にできたものだと言われています。
ポパ山は、霊山故に雨雲を呼び寄せることができ、そのために、裾野の平原は乾季が進むと草木も生えない程になりますが、山は青々とした緑の樹木で常に覆われています。
ポパは「花」を意味するサンスクリット語で、「花の山」の意となります。また、別名マハーギリ山、すなわち「大いなる山」とも呼ばれています。
ポパ山の中腹には、噴火によってできた標高736mの「小ポパ」が天に向かって奇妙な形でそびえています。山頂には、民間信仰・精霊ナッが祭られており、ナッ信仰の総本山となっています。山門から頂上まで往復約1時間、参道にはおみやげ屋が数多く並び、日本の金比羅山の参道のようです。
イ サレー
サレーはバガンの南約40kmの所にあります。バガン朝後期、とりわけ12世紀~13世紀の影響を受けて発展した所ですが、今日では、サレーはバガンよりも宗教的に重要な地位を占めています。英国統治時代のコロニアル様式の古い建物や、日本の援助でできた肥料工場もありますが、静寂で寛いだ雰囲気を味合うことができます。
バガン時代の遺跡は庶民や平民によって建てられたもので、バガンの アーナンダ、タッビンニュやダマヤンジーなどのような大きな建造物はありません。後期のものは、インドのブッダガヤにある建物をモデルにした、同名のバガンのマハボディから影響を受けています。
地域内には展示館となっている僧院(ヨーッソン・チャウン)もあり、建物の外部にはジャータカ(釈迦前世物語)やラーマーヤナを主題としたティーク材の彫刻が見られます。ミャンマー最高の専門職人の技をここで見ることができます。
サレーの南5kmの所には広大なシンピンサチョー寺院があり、450 m続くティーク材の柱廊が見られます。お坊さんの瞑想センターにもなっており、お祭りの日には各地から巡礼者や露天商がやって来て賑わいます。境内には、重要文化財にもなっている壁画があります。
3 マンダレー
マンダレーはゴールデン・シティ、そして上ミャンマーの中心都市として知られています。現在の人口は約130万人、ミャンマー第2の大都市です。マンダレーはそんなに古い都市ではなく、その歴史はわずかに160年ほどに過ぎません。ミンドン王によって1857年に造営された比較的若い都市です。
マンダレーはミャンマー最後の王朝のあった所で、それ故に、同市とその周辺は多くの名所旧跡に恵まれています。マハムニ・パヤー、王城、アトゥマシー・チャウン、クドート・パヤー、マンダレー・ヒル、ゼェジョー・マーケット、ヤンキン・ヒル、ウ・ベイン橋、ピンウールィン(旧名メイミョ)等々です。
マンダレーは、ヤンゴンと比べると中国の国境に近く、中国商人の影響が強まっています。また、日本の京都人のように、住んでいる人たちのプライドがやや高いように感じられるのが興味を引きます。
(1)マンダレー市内
ア マハムニ・パヤー
市の南側、中心部から約3kmの所に、マハムニ仏の仏像が坐しています。マハムニ・パヤーは仏塔ではなく仏像ですが、偉大なる仏像を意味するパヤージーとも言われています。また、1784年にラカイン国から持って来られたため、ラカイン像とも言われています。
座った姿勢の高さは3.8 m。マンダレーでは最も有名なパヤーであり、国中の仏像の中で唯一仏陀の魂が像に宿っていると信じられています。伝承では、この像は釈迦の在世中に造られ、釈尊が7度も抱きしめて命を吹き込んだと言われています。そのため、敬虔な仏教徒はそれを「いのち」あるものと考え、神聖な生き仏マハムニとして崇めています。
したがって、マハムニ・パヤーを参拝しないことは、マンダレー訪問が不完全であったことを意味します。仏像の写真撮影は長い間禁止されていましたが、現在では許されています。参道には真鍮製の仏像のみやげ店など、仏具関係の店が数多く並んでおり、大切な参拝みやげとして 多くの人が買って帰ります。
また境内には、アンコールワットのものといわれるブロンズ製のライオンや兵士の像があり、自分の身体の悪い部分を撫でると治癒すると信じられています。余りにも多くの人がさわるので、その部分がテカテカしています。
イ 王城
ミンドン王はいにしえの仏陀の予言に従い、旧都アマラプラからマンダレーに遷都しました。王城は正方形に形づくられており、外壁は東西南北に向いています。壁には12の門があり、それぞれ十二宮の名前がつけられています。外壁 の各辺はおおよそ2kmで、高さは5.5mあり、壁に沿って168m毎に監視塔が造られています。
王城の中心には、「獅子の部屋」と呼ばれる玉座の広間がありました。 その上には、金箔で覆われた高さ78メートルの7階建ての搭がそそり立っており、この搭を通して、王様の意思決定を助けるために玉座の上に宇宙の叡知が燦々と注がれていた、と信じられていました。
城壁の外側は平民と「外人」の居住地として、マーケット、職人の仕事場、各商店が立地していました。現在の王宮は、第二次世界大戦の時に焼失したため、再建されたものです。
ウ アトゥマシー・チャウン
アトゥマシー・チャウン(文字どおりの意味は比類なき僧院)もまた、訪れるべき価値のある所です。たしかに、1890
年の火災によって大部分が失われましたが、再建され、今日でもたぐい希なその全盛期の面影をとどめています。その絢爛さは息を飲むようです。
エ クドート・パヤー
ミンドン王は、バガンのシュエズィーゴーン・パヤーを模して、1857年にクドート・パヤーを建立しました。同パヤーは、マンダレー・ヒルの南東階段の基部の近くにあり、注目すべきものは、仏教の聖典ティピタカ(三蔵経典)が彫られ、小さな御堂に収納された729枚の大理石の石板の仏典です。三蔵とは 律(ヴィナヤ)、経(スッタ)、論(アビダンマ)を指します。
ミンドン王は、第5回目の仏典結集を行いました。そして異同無き教典をつくるため、重大な仕事は自ら監督して大理石板に刻しました。同石板は「世界で最も大きな書籍」として認められています。全文を読了するには、1日8時間読むとしても、450日かかると見積もられています。
オ チャウットージー・パヤー
マンダレー・ヒルの南側のふもとには、バガンのアーナンダ寺院を模した、ミンドン王によって1853~78年に建てられたチャウットージー・パヤーがあります。仏像は巨大な大理石の一枚岩から彫りだされたものであり、仏殿の外側の壁に面しては各面20体からなる八十羅漢、もしくは釈尊の偉大な弟子たちの彫像があります。
石像の彫刻は1865年に完成しました。石仏は、マンダレー北郊48kmの所にあるサジン山から1万2千人の人力で、13日間掛って運ばれたものです。
カ マンダレー・ヒル
マンダレー・ヒルの夕陽の影は、マンダレーの街を覆い、特異な景観を与えながら広がって行きます。山頂に立
ったその時、眼前に広がる壮麗な光景を見ることができます。手前は、木で造られた尖塔のある旧王城の銃眼を設けた壁、かなた、遠く青いシャン高原の長く続く稜線。丘の上のパヤーと僧院は、隠僧者ウ・カンティの献身的な
行為と、大衆の自発的な浄財によって建立されたものです。
マンダレー・ヒルからは市街地を一望でき圧巻です。現在では、すでに道路の建設は完了しており、容易に車で山頂まで行くことができます。夕刻ともなると多くの人が集まって来ますので、夕日を見るための場所を確保することが肝心です。
キ ゼェジョー・マーケット
マンダレー最大のマーケットで、日用品や食料品、絹織物などの店がぎっしり集まっています。各商品毎に同業種の店が多く集まっており、欲しい商品を探すのは比較的容易です。店内にはエスカレーターがあり、地方からやって来たお上りさんが、おっかなびっくりで乗る様が愛嬌でした。ビクトリア女王を記念して建てられた時計塔が目印になり、マーケットの東側ブロックには、毎晩無数の露店が店を開きます。屋台、菓子売り、雑貨売りなど、見て回るだけでも楽しいものです。
ク ヤンキン・ヒル
王城から東約3knの所にヤンキン・ヒルがあり、夕日を見る絶好のスポットとなっています。マンダレー・ヒルと違い、ヤンキン・ヒルでは写真の撮影料は必要なく、観光客もほとんどやって来ません。
(2)マンダレー近郊
ア アマラプラ
アマラプラは、ボードウパヤー王によって1783年に造営されたミャンマーの旧都です。マンダレーの南約11km、ザガインに向かう道路上に位置しており、人口は1万人。主要な産業は、木綿と絹の織物工場です。パトドージー・パヤー、チャウットージー・パヤー、バガヤ僧院、タウンタマン湖、ウ・ベイン橋など多くの見どころがあります。
◆ パトドージー・パヤー
パトドージー・パヤーはマンダレーの南西、エーヤワディ川の川岸にあります。バジードー王によって、1820年に建てられたものです。下層の段台には、ジャータカ(仏陀の前世物語)の場面が描かれた大理石板があり、上階の柱廊からは、眼前に展開する田園地帯とエーヤワディ川の素晴らしい光景を見ることができます。石碑にはパヤー建築の由来が記されています。
◆ ウ・ベイン橋
アマラプラには、1784年にできたタウンタマン湖に架かるウ・ベイン橋と呼ばれる有名なティーク材の橋があります。ウ・ベインは、インワからアマラプラに都が移った時の「行政長」で、廃墟となったインワ宮殿からこの長い歩道橋を造るために廃材を運び、巧妙に再利用しました。
橋は2世紀に及ぶ時の試練に耐えており、現在に至るまで利用されています。橋は若干の修復を除いては、新しい様式のように架かっています。ウ・ベイン橋はミャンマーで最も長い木造の橋であり(橋の高さ10m、長さ1.2km)、乾季の間は、橋は干からびた大地を渡っており、雨季になると湖は水で満ち、水面は橋のすぐ下となります。
イ インワ
インワはアマラプラの南西、エーヤワディ川とミィッンゲ川の合流点に位置しています。インワは、1364年にシャン族のタドーミンビャ王によって築城され、その間、他の土地にその地位を何度か譲ったことがあったものの、約400年間王朝の所在地でありました。現在は、城壁に囲まれた旧市街に、いくつかの寺院やパヤーが残るだけのひなびた村となっています。
◆ インワ橋(ザガイン鉄橋)
エーヤワディ川に架かる大橋で、全長 732メートルの鉄橋。英国によって1934年に造られ、第二次世界大戦の時、日本軍の侵攻をくいとめるために英国軍によって破壊されました。現在は真ん中が鉄道、両側が自動車道となっています。戦術的な意味があり、写真撮影は禁止されていました。
◆ メヌのレンガ僧院(マハ-アウンミェ寺院)
時の試練に耐えた、インワにおける大変美しいレンガ造りの僧院。ミャンマー文化の主要部分である宗教信仰の代表的な建物です。この僧院を訪ねることにより、往時の感慨にひたることになることでありましょう。荘大さを誇った王宮の数少ない残存物のうち、最も有名なものがこの王妃メヌのレンガ僧院です。
美しい化粧漆喰で飾られた建物は、伝統的な木造様式を模して造られているがために、オーク・チャウン(オーク材の僧院)とも言われています。1818年に、1819~1837年間インワを治めたバジードー王の第一王妃、ナンマドー・メヌによって建てられたものです。
この僧院は、マンダレーに滞在する間に、一度は訪れるべき所といわれています。これにより、古のミャンマー技術の粋とミャンマー建築の多くを学ぶことができます。
ウ ザガイン
ザガインは、ミャンマーの宗教の一大中心地として広く知られています。ザガイン・ヒルを中心に、周辺には600に上るパヤーと僧院が点在しており、3,000人を超す修道僧が生活していまする。ザガイン地区にはおおよそ100の瞑想センターがあります。
◆ ザガイン・ヒル
ザガイン・ヒルは、その名が示すようにザガインの市内にあり、僧や尼僧が瞑想を行い、世俗を離れた生活を送っています。ザガイン・ヒルは敬虔な修行者だけではなく、静かで穏やかな生活を送りたい人にとっても魅惑的な場所といえます。
600m級の山々が連なる丘に数多くのパヤーや僧院が建ち、ミャンマーを凝縮した光景と言われています。第二次世界
大戦の、日本人戦没者慰霊塔が建っています。
ザガイン・ヒルは曲がりくねったエーヤワディ川を望み、山頂からは一大パノラマを楽しむことができます。頂上にあるパヤーは、いにしえのミャンマー王朝とその臣下の人々の信心深さを象徴しています。
◆ スーンウポンニャシン・パヤー
スーンウポンニャシン・パヤーはザガイン・ヒルの中で最も有名なパヤーで、西暦1312年にピンヤ国の都を築いたタジーシンティハトゥ王と、1315年にザガインの王都を築いたアティンカヤソーユンの部下であっ たポンニャの領主によって西暦1286年に建立されました。
パヤーは山々の最高地点に塔のように建っており、ここから近郊のザガイン、エーヤワディ川、東方のマンダレー、アマラプラ、インワおよびシャン高原、さらには西側のムー渓谷を望む大パノラマを楽しむことができます。
◆ ウミン・コーゼ(90の洞窟)
ザガイン・ヒルのポンニャシンの東にある3番目に高い山の上にウミン・コーゼがあります。この洞窟は、インワの王ミンガウンジーが建てた4つのシンボー祠堂の1つで、現在そのうちの2つは朽ち果てしまっています。ウミン・コーゼ(すなわち90の洞窟)は、丘の上にあるたくさんの洞窟にちなんでその名を付けられました。
伝承によれば、王はザガイン山中に暮らす高名な隠僧者を訪ねるために象に乗ってやって来ました。象は聖なる菩提樹の葉っぱを食べようとしたため、倒れて意識を失ってしまいました。このため、王は王室の象と同じ値段(Sin Boe)のパヤーを建てなくてはならなくなりました。この乱暴ものの象は生き返り元気になりました。これが、象の値段のパヤーと呼ばれるゆえんです。
◆ ゼタウン・パヤー
ゼタウン・パヤーはザガイン・ヒルで最も古いパヤーといわれています。現在の高さは29.6mで、エーヤワディ川を見下ろすことができます。およそ2600年前に、仏陀とその弟子アーナンダがこの地に来て1週間滞在しました。この丘に棲む99人の人食い鬼は改宗して、 お釈迦様の説法を聞く聴衆となりました。彼らの頼みによって仏陀は黄色の衣を与えたので、彼らは尊い法衣を祭るパヤーを建立 しました。鬼のリーダーの名はゼタといい、彼らの住んでいた森をゼタウンナといいます。
◆ カウンムードー・パヤー
ザガイン地区で最もよく知られたパヤーで、町から北へ10kmの所にあります。巨大なドーム状の高さは46mで、その形状が婦人の乳房によく似ていることから、オッパイバゴダの愛称で親しまれています。壁はバマー文字、モン文字、シャン文字で説明されている仏陀の誕生を描いた絵画で装飾されています。
1636年に、タウングー朝5代目のタルーン王によって建立されたといわれています。かなり広い境内で、今後日本人観光客の増加により、周辺の光景が一変してしまうようになるかも知れません。
エ ミングオン
ミングオンはマンダレーの対岸、エーヤワディ川の上流約11kmの所にあります。マンダレーからは陸路ではなく、川を船で行くことになりますが、その小さな船旅は十分な楽しみを与えてくれます。ミャンマーの、躍動的な動脈交通の様子を観測できるからです。
ミングオン自体は小さな観光主体の町で、マンダレーからはちょうど良い日帰りコースになっています。
◆ ミングオンの大梵鐘
大梵鐘の重さは87t、高さ3.7 m、口径5m。1790年、ボードウパヤー王は大きなパヤーに釣り合うように、巨大な梵鐘を
鋳造しました。亀裂の入っていない鐘では世界一の大きさといわれています。
梵鐘は、現在小さなお堂に釣られていて、鐘の下をくぐることができます。あなたが内部から鐘の音を聞くことができるようにと、周りの何人かの人がゴーンと鐘を鳴らすことでしょう。この鐘は余りにも大きく、叩いた位では耳は痛くなりません。
◆ ミングオン・パヤー(ボードウパヤー王のパヤー)
このパヤーは、完成していたらおそらく世界で一番高いパヤーになっていたはずです。高さは152mに計画されていました。しかし、コンバウン王朝を築いたアラウンパヤー王の四男、ボードウパヤー王の死(1819年)によって未完に終わってしまいました。
1838年の地震によって損傷を受けましたが、現在の高さは50m、レンガで造られた方形の基盤部の各辺137m、台座の各辺は72mです。崩壊が進んでいますので、応急処置が取られています。
オ ピンウールウィン(旧名メイミョ)
ピンウールウィンは、植民地時代の旧名メイミョとしてよく知られています。メイミョは、第三次英緬戦争時の英国のメイ大佐の名にちなんで付けられたもので、ミョは町を意味します。ピンウールウィンはマンダレーから東へ67km、海抜 1,070mの所に位置し、英国の植民地時代は避暑地として栄えました。豊かな緑とビクトリア様式の重厚な建物が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
英国式の古い建築様式が旅行者の魅力になっています。町の標準的な交通機関は、驢馬が引く小さな箱形の四輪馬車でしたが、徐々に姿を消しています。町の中心部には時計塔があり、各商店が並んでいますが、喧騒な感じは余りしません。
ピンウールウィンの近郊には滝や洞窟などがあり、魅力を一層高めています。
◆ マハ・ナンダム洞窟
ピンルーウィンから東27kmの所にマハ・ナンダム洞窟があります。一般的には、ペイチンミャアウンという名前で知られています。洞窟内にはミャンマー各地の仏像や仏塔のイミテーションや、仏陀の生涯を 描いた場面、仏陀が説法している様子などが、実物のような形で無数に 造られています。インレー湖近くにもピンダヤの洞窟があり有名ですが、アトラクション性ではこちらの方が興味を引きます。
なお、本旅行案内は下記からダウンロード可能です。
初稿 1998年
改稿 2010年
新稿 2022年3月9日